とみっぺリモート

Webマガジン「月刊CAMNET電子版」
2018年から連載している記事のアーカイブです。

#1

人間とパソコンの素敵な関係ってのは、あると思う

読者のみなさん、はじめまして。僕は簡単に言えばパソコンオタクだ。それが高じて、パソコン漬けの毎日をどうにか正当化しようと、大学在学中に学業をほっぽらかして事業を始め、今に至る。

将棋の棋士は盤面に大宇宙を感じるそうだが、僕も同様に、パソコンとの生活の中で、時にものごとの原理や機微を妙に発見してしまったりする。しかしそんなことを、概念論よりハンバーグな妻に話しても門前払いだし、実生活で即効性のない長話に付き合ってくれる奇特な友人にもしょっちゅうお願いするわけにはいかない。退屈だから、ここに書き連ねてみようと思う。

ところで、僕は「パソコン」という言葉を「仕方なく」使っている。AppleのiPhone以来、スマートフォンやタブレットといった新しい形の端末が爆発的に広まったが、これらといわゆる従来のパソコンとをうまく総称する言葉が未だに発明されていないのだ。スマホやタブレットを含めない時は「PC」と書くことにする。なんか論文みたいな前置きだな。

さて、先日、友人がFacebookに、「巨人が13連敗する確率ってどんなもんだろう」なんてことを書いてたので、中高で習ったきりホコリをかぶった確率の数式を頭の隅っこから引っ張り出してきて、しばし考えた。ところが、「普通に考えれば1/2の13乗か。でも待てよ、試行回数は143試合と決まっている…」などと考えれば考えるほど深い迷宮にはまり込んで行く。こうなるとどこまでも行ってしまう性分なもんで、開幕13 連敗、2試合目から13連敗…と、考えうるパターンの総検証をおっ始めてしまった。

ただ、ここでなんとなしにExcelの力を借りたことで、ことはころりと好循環に転じた。開幕戦から最終戦までの連敗確率が一覧表になったことで、思考の速度と正確さが目に見えて上がった。計算自体を自分の頭で行う必要がなく、それらを導く規則性の発見に注力できたからだろう。

そしてついに、数学ド素人ゆえに2日かかったものの、「負ける確率がZのとき、X試合の中でY連敗する確率」という汎用的な式を書くことに成功した!このときの爽快感だけで何杯でも白ごはんが行けそうな勢いである。ちなみに、巨人が13連敗したことは、確率0.08%の奇跡的事象であった。

いきなりメタ視点だが、この話、僕はPCを大きく2つの用途で利用し、そしてある用途のためにあえて利用しなかった。

第一に、先に書いたとおり計算で使った。パソコンが最も得意とする技の一つだろう。

第二に、できあがった計算表をGoogle スプレッドシートに変換し、ネットに公開するために使った。(http://bit.ly/2rhB9dq)ここには誰でも入ることができて、XYZの値は自由に設定して遊ぶことができる。大げさに言えば、知の共有である。これはPCなくしてはとてつもない労力がかかる。また、見た人が入力できる双方向性は、かなり新しい体験だろう。

そしてこれがもっとも重要だと思うが、第三に、答えを知ることを目的として、ネット検索やWikipediaなど(ある意味でネットの向こうにいる人間)を使わなかった。腑に落ちるペースで考えてみたかったのだ。あくまでアイデアは自分が出し、PCには計算とビジュアル化を手伝ってもらうだけにした。

これってもしかして、人間とパソコンの理想的な関係かもしれないな、と思ったのだ。

ここ最近、いま人間がしているほとんどの仕事はAIに奪われるだろうという議論が盛んだが、それは合理性のみを前提とした極論だ。だいたい人間は、最短時間で最小限の栄養を摂取するだけの食事なんて好まないじゃないか。仕事だってお給料のためだけにやっているのではもちろんない。人間がどこまでやるかは、その周辺の副次的な幸福感を暗黙のうちに感じ取って人間が決めればよいものだ。それをしないのは、飼い犬に自ら手を差し出して噛ませるも同然だ。よもや資本家が経済合理性のみを追求してなんでもかんでも自動化無人化を推し進めるなら、それは戦争に匹敵する大きな社会問題になるだろう。

僕は大学やシニア向けの教室などで、パソコン講師の仕事もしている。そこでいつも感じるのが、パソコンに苦手意識を持つ人は、「なんだかすごい機械に自分を順応させなければいけない」と思い込んでいることだ。そういう人は決まって僕に「何から始めればよいかわからないので、パソコンの基本を教えてほしい」と言う。これでは、最初からパソコンに飲まれてしまっている。

そこで勧めるのは、まず、日常生活のある面倒な作業をひとつパソコンでやってみよう、という目的を立てたうえで、いきなりそこからやってみるアプローチだ。僕にとってここまではパソコンに頼んだほうが得だ。ここは頼まないほうが気持ちいい。最適な距離感を自ら見つけることの重要さは、人間同士の関係と全く同じことなのである。ちなみに、若い頃を通じてパソコンがなかった高齢者の方々のほうが総じて上手に距離感をはかっていることは、とても興味深いことだ。

万事こんな調子で書いていこうと思っている。どうぞよろしくお願いします。

2017.06

#2

OSの思想と政治体制は、似ていると思う

パソコンの電源を入れたとき、まず最初にロゴが映し出される。マシンのメーカーの他に、オペレーティングシステム(OS)が何であるかということを主張してくる。ユーザーは「Yahoo!を閲覧する」といった具体的な行動の準備として、まず OSの入場ゲートをくぐらなければならないのだ。

OSの存在はソフトウェア部分の中心であり、あらゆるアプリケーションや周辺機器の動作を統制している。開発者はOSの仕様に合わせてアプリや周辺機器を作らないといけない。法律を作る人(OS)と、そのもとで生活する一般市⺠(開発者)のような関係と言え、政治体制のようにも見えてくる。

PCの世界で現在最も広く使われているのがMicrosoft Windows だ。ビル・ゲイツは、Windowsを普及する戦略として低スペックなパソコンで動作するようにして低価格化を推進した。しかしより重要なのは、アプリを開発するコストを徹底的に下げたことだ。

思い返せば、PCを買ってもらった中学1年当時はネット環境がなく楽しみはもっぱらパソコン雑誌だっだが、その中にはどこの誰が作ったとも知れない数百のアプリがCD-ROMに収録されていた。この⻘天井の拡張性が楽しくて仕方なかった。

このようにしてWindowsは参入する企業や開発者をどんどん増やし「なんでもできる」環境を構築したことで、PCのトップシェアを手にした。このような非常に自由至上主義的な考え方は一般市⺠(開発者)の経済活動を最大限にしたが、その反面で悪意のある開発者の取り締まりが手薄になりウイルスの蔓延を許してしまった。最近でこそ内蔵されるようになったが、感染防止のためには他社製のセキュリティソフトを入れなくては使いものにならなかった。警察機能まで⺠営化するとはなんとも小さな政府的な考え方である。

また、開発者の声を強くしすぎてしまった。昔のアプリを動かすための互換性の維持に体力を奪われ、過去の仕様との決別が遅れる。Windows 10でも様々な部分で新旧が入り混じり、操作性のちぐはぐさが目立つ。そんな「決められない政治」な部分は、日本の自⺠党が行ってきた調整型の意思決定のようだ。

GoogleのAndroidはWindowsの考え方と多分に重なっているから、利点や弊害もよく似ているが、互換性の部分についてはまだ歴史が浅い分どうなるか見えない。

AppleのmacOSは、主にデザイン・出版業界で根強く支持されてきたが、最近はiPhone(iOS)の爆発的な普及により、連携が良いとして連鎖的に利用者を増やしている。スティーブ・ジョブズは、統一感がもたらすユーザーの直感的な操作を最も重んじた。そのあまりAppleは一時期の例外を除いて、MacやiPhoneはマシンの段階から自社生産にこだわっている。

中身のソフトウェアでもその色は濃い。iPhoneのシステムであるiOSでは、Appleが運営するAppStoreに陳列されているアプリ以外は全く動かせない。AppStoreに並べてもらうには厳しい(というか厳しすぎる)審査をパスせねばならず、その細かいルールはAppleによってしょっちゅう変更される。このような方式は PCのmacOSにも輸入され完全に適用されつつある。また、互換性の確保期間も短い。数年前のプリンタが最新の OS の仕様変更で動かなくなったりする。

このようなルールの厳格さは前述のWindowsと正反対で、いわば一党独裁の指導体制だ。市⺠(開発者)の行動は事細かく制限されるが、その最たるメリットは秩序維持だ。事実、iOSではウイルスの騒ぎと言ったものをほとんど聞くことがない。また、過去の遺産にとらわれすぎないため、いちいち建て直す店舗みたいなもので、その時々の統一感を最大限に出すことができる。独裁者が作る街は美しい。macOSを始めとしたApple製品全般に見られる美しさを保つために必要な考えかもしれないが、万人に愛されにくいことも確かである。ひとたび統制に失敗してユーザーの信頼を失ったとき、日々の圧政に不満を持った開発者が雪崩的に離れていく可能性がある。

このようにOSの考え方の違いを強調したが、時代の変化とともに両陣営の考え方が徐々に近づいていることも確かだ。

Windowsは、スマートフォン向けにも手を広げようとしたが、先行するiPhoneやAndroidに全く刃が立たず変革の岐路にある。最大の問題であったセキュリティ面を改善するため、iOSにならって、動くアプリを「Store」経由のみの方式にしようとしている。自由を売りにしてきたWindowsが警察増強に動いたことは、昨今の世界情勢にも通じるところがある。

またmacOSの方は、Windowsで作ったファイルの閲覧や共有の機能を増強したり、Macの端末でWindowsそのものを動かすことができるようにしたりと、独自路線に固執せず相互性を確保しようとしている。弱り気味の現チャンピオンに立ち向かうチャンスとばかりに、清濁併せ呑むと言ったところである。

OSを政治体制になぞらえてどういうメリットがあるのか微妙だが、読者それぞれの好みに合った機種選び、パソコンに対する新たな興味につながればと思う。変に中立ぶる必要もないので書いておくと、現在の僕はこの原稿をMacで書いて iPhoneで読み返すApple党である。

2017.08

#3

ラスターとベクターの概念は、ものの捉え方そのものだと思う

デザイン系の仕事は、ラスターとベクターという相対する2つの形式への理解なくしてはほとんど立ち行かない。一般の方にこれを文章でわかりやすく説明することはとても難しいが、仮にも哲学などとぶって始めから難しいことを書きますよと宣言しているのだから、ここはいっちょ挑戦してみようと思う。

ひとつの黒塗り円の画像があるとしよう。もしこれがラスター形式ならば、内部データには「1段目は□□■■■■□□、2段目は□■■■■■■□・・・」というように左上からのマス目(ピクセル)の色が羅列したものが書かれている。一方ベクター形式ならば、「黒塗りの円!」というそのまんまのシンプルなものになる。それぞれどのような長短があり棲み分けがなされているのだろ うか。

データ量だけでみればリッチで高機能な感じがするラスターは、内容をピクセルと色で解釈しているため、どのパソコンでそれを表示してもほとんど同じに見える性質を持つ。なぜなら、PCやスマホの画面はそもそもピクセルの集合でできているからだ。パソコンや携帯電話の1ピクセルの大きさ(画面解像度)はだいたい共通して「いた」(96〜135ppi)ため、この性質はWebサイトなど画面に映すデザインプロダクトの制作に大きな安定感をもたらした。

ところが、その安定が過去のものとなった契機はスマホの出現であった。iPhone 4以降には「レティナディスプレイ」と銘打って超高解像度の画面(326ppi)が搭載され、一気に1ピクセルの大きさは3分の1近くになってしまった。しかし画面は高解像度でも、さきほどのラスターの円はくっきりせず、片手落ちになる。なぜならラスター画像は、自身が現在持っているピクセル数以上の情報は持っていないし、あとから作り出すこともできないからだ。同じ大きさで表示しようと無理やり3倍に拡大してもただぼやけるだけ。これをきれいに表示するためには、3倍の解像度の画像を作らなければならない。

対するベクターは、内容を論理で解釈する。「円!」と言っているだけである。心許ない気もするが、これがあんがい役に立つ。円は3センチだろうが3メートルだろうが円なのだ! だからベクターの円をiPhoneで表示しても大型看板に出力しても、高解像度の画面を生かし切ったくっきり度で見ることができる。ただし「円」と言っているだけなので、最終的にピクセルでできている画面にどう映るのかは各端末の演算(レンダリング)能力に依存する。

このようにベクターは特に図形などの分野で絶大な利便性を持つため、まともなデザイナーであればロゴ等は必ずベクターで持っておき、必要に応じてラスターに変換(ラスタライズ)して使う。他方、背景の物体から陰影まで複雑な情報を持つ写真画像だとベクターの出る幕はなく、もっぱらラスターが受け持たざるを得ない。この場合、最大限に解像度の高いものを捨てずに持っておくことが重要だ。

デザイン分野に少しでも興味がある方ならば、フォトショップやイラストレーターという名前を聞いたことがあると思う。どちらも同じアドビ社のソフトウェアで同じようなものが作れるのに2つに分かれているのは、前者がラスター、後者がベクターを主として扱う役割を持っているからだ。

さて、字数の関係でいきなり大雑把な解釈をすれば、これはものの捉え方の二項対立そのものである気がしてきた。ラスターは見た目、ベクターは本質と言い換えることができないだろうか。人は常に他者の行動、言動、状況をインプットし、評価したり学んだりアウトプットしたりする。このとき、入ってきた情報をいずれの形式で解釈し頭に置いておくか。ラスターで覚えるだけでは、表面だけの丸暗記であり、猿真似にしかつながらない。そして拡大したら劣化するように、モデルケースより少しでも状況が困難なときそれを応用できない。ここはぜひベクターを選択し、一を聞いて十を知る人でありたい。自ら咀嚼し、既存からオリジナルを見出す。なんともかっこいい響きではないか!

とはいえ何でもかんでもベクターで置いておくと、いちいち原理原則から考えてアウトプットせねばならず、左右どちらの足から踏み出すかまで考え込むような、頭のリソースバカ食いモードに突入してしまいそうだ。そこで、さして重要と思わないものや自分の苦手な分野においては、ラスターに固めて「馬鹿の一つ覚えですが何か?」のスタンスで行く使い分けが重要かもしれない。たとえば僕は、妻がぶっ倒れてやむを得ず料理をするとき、寝室とハンズフリー通話をつなぎ、向こうからの指示通りにロボットと化して作る。同じものをもう一度作ることしかできないが、それ以上のパワーはつぎ込まない。

パソコンの世界はその処理能力向上とともにベクターの活躍の場が広がってきている。人間もまた頭の中のベクター率を上げていくことが正しい進化ではないだろうか。

2017.10

#4

脱フォルダー」の流れは、「なんでも検索時代」突入の兆しだと思う

パソコンは一見複雑にできているが、ソフトウェア的にはフォルダーとファイルでできていると言って差し支えない。大事なフォルダーが削除されればシステムは起動しなくなるし、容量が満杯になることはすなわちファイルが多すぎてディスクを圧迫していることを意味する。

我々が現実世界でモノの整理をするとき、使う場面や関係する人などによって別々の箱に分別し、ときにそれらの位置関係にも配慮して収納する。グルーピングである。パソコンの世界のフォルダーの考え方もグルーピングそのものであり、そういう視点で自然に行き着いたものだろう。

しかし現実世界のグルーピングとパソコンのフォルダーとを比較すると、一方は有形の物体で他方は無形の電子データだということ以外にも異なる特性がある。

第一は、固有の順番の有無だ。現実世界は、XYZの3次元の世界なので、箱をどう並べるかという意味で、固有の順番を持つと言える。それが偶然の場合もあるが、使用頻度などの優先順位を考慮した結果であることのほうが多いだろう。一方パソコンの場合、例えばPCのデスクトップアイコン、スマホのホーム画面のアイコンなど、例外的に並べられるようなしくみもあるが、本質的にはフォルダーやファイルに固有の並び順を定義するような機能はない。

第二は、入れ子構造の無限性だ。現実世界では、人が扱えるモノの大きさには自ずと上限と下限があり、箱の中のクリアファイルの中の封筒の中のカード、という程度は可能だが、概念世界であるパソコンでは、この限界が事実上ない。パソコンメンテナンスという仕事上、普段一般の方が立ち入らないシステムの領域を探っていくことがあるが、そうするととんでもない深度の階層の中にトラブルの原因のファイルがあったりする。

第三は、同一性の決定方法だ。現実世界で「保険関係」という名前の封筒が箱に3つあってもせいぜい不便なだけだ。パソコンでは、同じフォルダーの中に同じ名前のフォルダーやファイルは2つ存在できない。つまり同一性が名前で決まってしまう。

このような特性は、場面によっては人間の直感とのズレを引き起こす。その結果、「脱フォルダー」の方向に進化することがある。

固有の順番を持たない第一の特性は、柔軟性の高い並び替えを促進している面もある。PCでは受信トレイのメールは件名順にも日付順にも、また昇順にも降順にも容易に並べ替えることができる。ところが、元来パソコンに慣れ親しんでいない高齢の方ほど、この柔軟性が理解しきれず、並び替わってしまったメール一覧を前に頭を抱えてしまう事例が多い。スマホのメールアプリではほとんど並び替えの機能が削られ、日付降順のみになっていることは、興味深い進化だ。

また近年多くの人が使うようになったGmailは、メールの整理方法をフォルダからラベルによるものに変革した。ひとつのメールに「見積」「重要」などと次元の違う複数のラベルを付けられる。どこかひとつに属させないといけないフォルダとは似て非なるものだ。またラベルには階層がない。つまりGmailは第二の特性である入れ子構造まで取っ払ってしまった。

また、デジカメやスマホで撮影した写真の整理をエクスプローラなどで手動整理しようとすると、偶然同じファイル名の画像がバッティングしてしまい、第三の特性上ファイル名を変更せざるを得ないことがあるが、人は直感的に写真にいちいち名前なんか付けていないので、作業が一向に捗らない。最近の写真管理アプリでは表面的にフォルダー階層やファイル名を意識しなくて良い作りになっている。皮肉なのは、中途半端に手動整理と専用アプリによる整理が混在し、マイピクチャの中がカオスになってモヤモヤしている方が少なからずおられることだ。

このような「脱フォルダー」の流れだが、フォルダーを使わないということは、すなわち同じ箱にすべてのファイルが入っていることを意味する。フォルダー整理派の方にとっては不快でたまらない状況だろう。しかしここで昔は良かったなどと言わず、ある点に注目したい。この流れが前述のようにGmailから顕著になった理由である。それはつまり、Googleが得意とする検索技術の急速な進化だ。どうせ検索で確実にたどり着けるのなら、そもそも分けておく必要がないのだ。あらかじめガチガチに整理する几帳面さより、上手に検索して見つけ出すスキルが問われる時代になっていくのである。また、検索によってダイレクトに目的物に到達するアプローチは、並び順の重要性をも低下させてしまう。きわめてパソコン特有の進化であり、現実世界のモノの整理とはより違ったものになっていくだろう。

検索の技術そのものは実用に耐えうる一定のレベルに達したと言えるが、写真などの画像に自動で文字情報を付加する認識技術は次の課題になってくる。これが成熟してきたとき、「脱フォルダー」と「なんでも検索時代」への突入は一気に早まるはずだ。

2017.12

#5

フォントは、すなわち視覚版の声色だと思う

僕は「パソコンの中での得意分野は何か」と聞かれたら、「フォントマニアです」と言う。表示されたフォントの銘柄を当てるインターネット上のゲーム「フォント検定」でぶっちぎり1位のスコアを獲得しているから、それほど間違った認識ではないはずだ。その割にこの連載でフォントにあまり触れてこなかったのは、以降のネタが枯渇してしまうような気がしたからだが、それを待たずしてネタが切れ始め、あえなく伝家の宝刀登場となってしまった。

フォントと聞いてみなさんの頭にまず浮かぶのは、ワープロソフトの文字設定ではないか。大きなカテゴリとして明朝体とゴシック体があることはよくご存知のことだろう。フォントの話をするとき「明朝とゴシックはどう違いますか?」と問うと、まずほとんどの人は「ゴシックのほうが太い」と答える。これはかなり間違っているし、非常にもったいないと感じる。

このような答えになってしまう「責任」は、トップシェアのワープロソフト「Word」で、<MS明朝><MSゴシック>が標準のフォントになっていたことにある。事実、<MS明朝>はとても細く、<MSゴシック>はそれに比べれば太い。だが視野を広げれば、この世界にはとてもたくさんのフォントが作られて流通している。サイト「和文フォント大図鑑」にも2,900書体以上と書いてあるから、日本語のフォントだけでも1万書体は優に超えるはずだ。つまり先ほどの答えは、数多存在する中のたった2書体の特徴を比較して述べているに過ぎない。

明朝であれゴシックであれ様々な太さ(ウェイト)のものがあることは、看板などを念頭に置けばすぐに分かることだ。例えばこの文章には<メイリオ>というゴシック体が使われているが、これより太い明朝体などいくらでもある。2つを分かつのは太さそのものではなく、太さが「均一かどうか」なのだ。明朝は横棒が細く縦棒が太いことに加え、棒の両端には「うろこ」などと呼ばれる膨らみがある。一方ゴシックはそれらがまったく(またはほとんど)なく、均一な太さで構成される。

さてここまでなら単にフォントのお勉強だが、哲学というからには、なぜ人はフォントを開発するのか、表現物にあらわれるフォントの違いがどのような意味を持つのかについて考えておきたい。

書体が違うと文章の可読性が変わる。家電の説明書ではゴシック体が多く使われる。極力シンプルな字形にして小さい文字をたくさん詰め込み、それでも読めるようにしている。逆に新聞が明朝体で構成されるのは、紙面全体が黒ぐろとして読む気が失せることを防ぐのとインク代の節約が理由と言われている。また、ニュースのテロップで子どものセリフには角丸のフォントが使われたりする。これは「かわいい」など醸し出すテイストの変化を利用しているといえる。

ある日僕は、これらの特徴が人の声ときわめて似ていることに気づいた。小さな音量でも聞きやすい声の人、大きな声でも邪魔に感じない声の人、かわいい声の人、と言う具合である。それ以来、僕はあらゆるフォントが誰かの声に聞こえるようになってしまった。

明朝とゴシックで考えると、基本的に明朝は女性の声、ゴシックは男性の声と結びつきやすい。くびれの有無という両性の体型の違いに一致していたりもする。字の太さは声の高低に対応する。細いゴシックは声の高い少年、太い明朝は落ち着きのあるマダムと言う感じである。

内容が同じでも話者つまり声色が違えば伝わり方はぜんぜん違う。視覚をまったく利用できないラジオCMでは効果的にその内容を伝えようと、短い時間内に複数の話者を登場させて緩急をつくる。他方テレビでは、幾分フォントにその役割を分散されている。声とフォントが聴覚と視覚それぞれの分野でとても似た立ち位置であることがここからもわかる。フォントの開発は、声と同じようなポテンシャルを視覚にも持たせたいという人間の文化的な営みなのだ。

冒頭で僕は「ゴシックのほうが太い」という捉え方を「もったいない」と書いた。なぜか。そう捉える人は、きっと強調したい文言にゴシック(男)、そうでないところに明朝(女)を使うだろう。だがそれは声色理論に当てはめれば、フォント版の「男尊女卑」だ。男女の不平等が昨今の生産性に深刻な影響を与えているように、フォントに対する偏った認識はこの世界のデザインの発展をかなり妨げていると思う。だからもったいないのだ。この文言はどんな人の声で語るのがしっくり来るだろうと考えて、一度フォントを選んでみてはどうだろうか。

ただし、このような一歩踏み込んだフォントの活用も、環境なくしてはなかなか難しい。字数が来てしまったので、次回に続けたい。(ああこれで次のネタが確保できた)

余談だが、僕はこの連載記事のフォントを指定していない。あえて普段のこだわりを廃して、みなさんにどう伝わるのかを試してみたかったからだ。これもひとつのフォントの使い方だろう。

2018.02

#6

フォントを活用すると、モノづくりのクオリティがぐっと上がると思う

前回は「フォントはすなわち視覚版の声色だと思う」と題して、フォントの存在意義を論じ、その素晴らしさの布教活動をおこなった。だが実際に活用するには、ありかを知る、なければ手に入れる、安価な方法を見出すと言った下準備が必要だ。

フォントを使う場面を考えてみると、チラシや名刺などの印刷物始まり、Webサイト、動画など、たいていなんらかのモノづくりを伴っている。したがって、スマホやタブレットよりも繊細な操作が可能なPC、そして制作物に応じたアプリケーション、そしてフォントが必須になってくる。

PCについて言えば、WindowsとMacを比較したとき、Macのほうがフォントの画面表示技術が優れており、印刷されるイメージをよりそのまま画面で再現できるが、Windowsも画面高解像度化の副産物としてフォントとの親和性が年々向上しているので、特にタッチパネルの端末をお使いの方はWindowsでも問題ないと言ってよい。

アプリケーションは、印刷物であればホームユースでWordやPowerPoint、プロユースではIllustratorが定番だ。動画ではホームユースでPremiere ElementsとかiMovie、プロユースでPremiere Proなどになろう。Webでのフォント活用については後述する。

さて本題のフォントだが、OSに最初から入っているフォント、入っていないフォントがあり、後者を手に入れる方法はいくつかある。

最近はOS側も大手ブランドのフォントを積極的に搭載し、モノづくりのクオリティを底上げしてくれている。Windows10に新しく搭載された「游明朝」をWordのビジネス文書に使うだけで、それまでの「MS明朝」で作った制作物からは見違える出来になる。Macでは「筑紫A丸ゴシック」など、プロデザイナーも垂涎の「使い勝手は最高だが高価なフォント」が搭載されるようになった。まずはお使いの端末内にあるフォントを探索してみたい。

自分で新たに追加するフォントは、有志が作成してネット等で配布されているフリーフォント、販売されている有料フォントに大別される。フリーフォントはどうしてもピンキリ感があるが、中には唯一無二の味を醸し出す名作もある。手書き系の「ふい字」書体には上手すぎず下手すぎない絶妙の質感があり、長らく筆者のメールソフトの表示フォントになっていた。これで人のメールを読むと、それだけで一段優しくなるのだ。ぜひ「フリーフォント」や書体名でネット検索し、お気に入りを掘り出してみてほしい。新作フォントの情報を仕入れて発信する「コリス」などのブログサイトや、フリーフォントを多数まとめて収録した書籍も非常に有用だ。よいフォントが厳選されているので、自分で1から探す手間が省ける。

有料フォントは、それぞれの制作会社や提携している販売サイトから購入する方法がまず思い当たる。最近は単体販売よりも年額契約制が主流になってきている。トップシェアのモリサワ社が展開する「MORISAWA PASSPORT」は、年額約5万円で同社の1000以上のフォントが使い放題というサービスだ。単体だと1つ数万円になるので、これでもずいぶんと敷居が下がった。

とはいえ、なかなか気軽に出せる金額ではないと感じる方も多いだろう。そういう場合、年賀状アプリなどの付属フォントを利用する手もある。付属フォントと言っても基本的に親アプリのみならずOS内のすべてのアプリで使用できる。「筆まめ」には毛筆書体を中心に100以上ついてくるし、Windows用ワープロアプリの「一太郎」には、Macに標準搭載されている「ヒラギノ」書体が付属していて、単体で買うより格安でWindows環境でも利用できることになる。また「Illustrator」を含むAdobe社の年額サービス「Adobe Creative Cloud」にも多数のフォントが使い放題のサービスがついてくる。

ここまで、自分のパソコンでモノづくりをする上でのフォント環境整備についてまとめた。ただしこれがWebサイトの制作においてだけはそのまま適用できない。フォントはそれが入っているパソコンでは表示できるが、入っていないパソコンでは表示できないという基本的な性質が邪魔をするからだ。紙ベースのものであれば印刷してしまえば自在に表現できるが、見る人のパソコン環境で左右されるWebサイトはそうは行かない。ではどうするかと言うと、「Webフォント」というしくみを利用する。生成されたコードをサイトのコードに貼り付ければ、見る人のパソコンに入っていないフォントでも表示できるものだ。フリーフォントではほとんど不可能だが、有料フォントのサービスはその多くがこの機能を付けている。また最近ではサーバーにWebフォントの機能が搭載されているものがある。「さくらのレンタルサーバー」では前述のモリサワ社のフォントなどが追加料金なしで使える。

ぜひあの手この手で面白いフォントをかき集め、場面場面にドンピシャなチョイスを可能にし、周りの人をあっと驚かせる完成度のモノづくりにトライしてみてほしい。そのプロセスが、ひいては文字とは何者かという哲学的思考にもつながって、パソコンやデザインへの理解を深めるきっかけになるはずだ。

2018.04

#7

データベースの最適化は、デザインの鉄則そのものだと思う

会社を運営しようとすると、顧客、勤怠、売上など、様々な管理業務は避けられない。中小企業ではこの部分がきっちり効率化しておらず、手書きやExcelでの管理が散見される。僕はそれを最低限の規模のデータベースシステムに作り直して運用するサービスも行っている。

人が感覚的に作ったExcelファイル等をシステム化するとき、かならずやらなければならないのがデータベースの最適化だ。それをしなければ効率よく作ることができないし、きびきびと動いてもくれない。そしてなにより、あとで改良するとき膨大な分析と作業で手に負えなくなる。

データベースという総体の中に、いくつもの表(テーブル)をつくり、それぞれのテーブル内の行(レコード)が増えて蓄積されていく、行は必要に応じて作った項目(列)で構成される、という基本的な構造を踏まえて話を進める。

たとえぱ請求書を思い浮かべてほしい。1枚の紙に必要な情報が詰め込まれているので、人からの見た目ベースでは「データひとかたまり」すなわち「1テーブル1レコード」だ。しかし、これをパソコンのシステムベースにすると、「4テーブル8レコード」などという全く違うものになる。なぜか。

まず相手先の住所や会社名などは、以後の請求書でもたびたび呼び出すことになるから、これを請求書のデータとして持ってしまうと、新しい請求書が作られるごとにこれが複製され、システム内に大量に重複して存在することになる。あとで住所を修正しようものなら、すべての請求書のデータを直さなければならない。実際Excelで請求書を作っていたら、そうなることだろう。

意味のない重複をなくすことは、最適化の基本の一つだ。この場合、「請求書」とは別に「顧客」というテーブルを設けてデータを持ち、請求書から呼び出す方式を取るのが適切だ。結果、内部的には請求書内のデータは「株式会社〇〇」ではなく「15」という顧客レコード番号のみとなる。以後の請求書で同じ番号を呼び出せば、同じ相手先の情報が表示されるという具合だ。顧客レコードの住所を変えれば、この相手先宛の請求書の住所は一括で変わる。

自社の情報も当然に請求書に記載するが、これなどは相手先データよりさらに単純で、すべての請求書に同じく表示すべきものだ。これも同じ理由で、「基本情報」というような別途のテーブルに持たせるべきものだろう。

明細行はどうか。これは確かに請求書ごとに固有の情報だから請求書テーブルが持つべきと考えやすいが、問題は何行になるかわからない点だ。一番多い場合に備えて大量の列を作っておくというのもありだが、最大値を超えたとき処理できなくなるし、普段殆ど使われない空き列だらけになる恐れがあり、処理を遅くさせるかもしれない。

親と子でテーブルを分けるのも、最適化の定番メニューだ。「請求書」とは別に「請求明細」というようなテーブルを作り、個々の品名、単価、数量等のデータを持たせれば、明細行の増減に柔軟に対応できるようになる。

これでテーブルは「基本情報(自社の住所や屋号)」「顧客(相手先の住所や会社名)」「請求書(日付や合計金額)」「請求明細(個々の品名や数量)」の4テーブル、レコードは、明細が5レコードとすると、それ以外のテーブルは1づつ、計8レコードである。このように毛色の違うデータを別々のテーブルに分割する意義は、総じてそれぞれのテーブルの余計な列をなくし、同じデータの重複をなくすことだ。これにより、人間側の操作は減り、システムは軽快に動く。

難しい例示が続いたが、この話は抽象化したほうがわかりやすい。要するに、重複をなくせ、親子関係をはっきりさせろ、関係ないものを一緒くたにするな、ということだ。これはまさにデザインの鉄則そのものではないだろうか。

デザインというと、色をつける、飾り付ける、模様をあしらうといった「足し算」を想起しがちだが、本質的にはそれらを「必要なだけ」施すことであり、過剰なものを削ぎ落としていく「引き算」の度合いが強いと感じる。

学校でのノートテイクで、大事なところに赤線を引いていたら、いつのまにかページ全体が真っ赤になってしまうタイプの人がいる。過ぎたるは及ばざるが如し、結局なにも強調していないのと同じだ。どこを強調するか考えるより、どこを強調しないのかを考える方が速かったりする。また社会のノートで「三権分立」と「立法」以下を同じ左揃えで書くのではなく、後者を少し右にずらして書くと、親子関係がはっきりして記憶を促進させる。前者をタイトルらしく少し大きめに書くのもよい。そして、数学と英語を同じノートに混在させると困るということは、自然に身に着けた知恵だろう。

「データベース脳」になると、印刷物のデザインが洗練される程度にとどまらず、メールの文章、学生への指示伝達がすっきりし、その順序まで厳密になってくる。日常生活そのものがデザインなのだ。

2018.06

#8

セキュリティ対策は、「頭隠して尻隠さず」に陥っていると思う

パソコンが他のあらゆる道具と比べて決定的に異なるのは、購入した後に成長する、すなわちシステムがアップデートされたり、アプリを入れて機能を追加できる点だ。その圧倒的な柔軟性は、否応無くセキュリティ問題と隣り合わせである。ほとんどの「ホワイトな」アプリに紛れて、データを壊したり盗んだり、ユーザーを脅かして金品をせしめようとするウイルスやマルウェア等の「ブラックな」アプリが待ち構えている。

また、そのようなトラップの類ならずとも、ネットで買い物などをする際、個人情報やクレジットカード番号を入力することにためらいを覚えるケースはままある。Googleを始めとしたWebサービスが隆盛の昨今、全てを見られているようでもあるし、かと言って気にし過ぎてもサービスが活用できず、なんとも生きづらい世の中だと感じる方もいるだろう。

だが少し俯瞰的に見ると、PCやスマホのセキュリティに対する一般ユーザーの考え方は、総じて勘所がずれており、いわば「頭隠して尻隠さず」に陥っているように感じる。わかりやすく理解するため、主なケースをリアルの防犯に置き換えながら考えてみたい。

ことWindowsのPCやAndroidスマホなど非Appleのプラットフォームでは、日常的にウイルス類が出回っていて、ちょっとした操作で実行できてしまう。本来これは、プラットフォーム自体すなわちOS側がそうならないように作られているべきだと僕は思うが、開発者の自由度を優先するという政策的な選択の結果こうなっている。(実際Apple系はアプリの審査が厳し過ぎて開発者から反感を買っていることは第2回で述べた。)その穴を塞ぐべく、他社製のセキュリティソフトを入れて使うのが常識になっている。

多くの一般ユーザはこれをもって安心しきっているため、おかしな広告が出現したりすると驚き、僕はセキュリティソフトを2つ入れてるのにどうなっているのかなどと混乱する。しかし、そもそもセキュリティソフトはリアル世界のセコムみたいなもので、不審者を見つけるとアラームが鳴る、要はそれだけであり、その後のリアクションは住人自身に委ねられる。不審者風の妻だったりして、なんだと言って解錠ボタンを押すこともあるだろう。パソコンユーザーはOSやセキュリティソフトの出す過剰な警告画面に慣れきって、反射的に許可ボタンを選択し、ウイルスを自ら通してあげているのだ。ウイルスの感染経路No1はメールの添付ファイルだが、特にここで顕著だ。

また、添付の有無に関わらず、メールのやり取りそのものがほとんど暗号化されておらず、ハッキングは容易だ。平気でパスワードを本文に書いたりしている時点でザルなのだが、こんなことはセキュリティソフトは忠告してくれない。秋の夜長、窓全開で隣人の悪口を大声で喋っているようなものである。

ここまでの結論を言うと、まずセキュリティソフトの役割は前述の通りであり、ましてや複数入れる意味は全くない。むしろ過剰なチェック処理で動作が重くなるだけである。もちろん警告がないよりはあったほうがいい。日常の動作を阻害しない程度のものをひとつだけ入れておけば良い。WindowsではXP以降、 Microsoft Security Essentials という純正無料のアプリがダウンロードできるようになり、8以降はそれが内蔵されたため、実は別途の対策はいらない。そのような環境下では、プロバイダ契約にオプションでついてくるセキュリティ対策の類は、ほとんど過剰だ。

もっと身も蓋もないことを付け加えれば、いくらパスワードやセキュリティソフトの構成を強固にしても、動いている実機を直接触られたら、全部丸見えである。自分がパソコンメンテナンスの仕事をしているから特にそこに目がいく。付けっ放しで離席していないだろうが。あるいはそれをしても大丈夫なように、個別の秘密ファイルにパスワードをかけたり、容易に見つけられないところにしまっているか。考え出したら嫌になりそうだ。

最近では中小オフィス向けに、セキュリティユニットなる箱型の機械の導入をすすめる営業が盛んだ。オフィスのネット親機と各端末の間に接続して、あらゆる通信を監視し、悪いものは遮断するというものだ。こちらは各パソコンで働くセキュリティソフトの問題点である「結局ユーザーの判断に委ねている」部分をカバーして、門前払いしてしまおうという思想に基づく。それ故に実際に導入してみると、共有フォルダが見られない、プリンターが動かないなど、日常の作業までできなくなって途方にくれることが多々ある。これらを解決するには、ユニットに多くに例外設定をせねばならない。

これで大丈夫という魔法の杖はない。仕組みは最低限利用しつつ、あとは自分自身が気をつけないと話にならない、ということなのである。Webサービス等のプライバシーについては、次回にまわしたい。

2018.08

#9

パスワードは、自他を等しく縛るから難しいと思う

GoogleをはじめとしたWebサービスにおいて私が私であることを認証する手段は、パスワードが主役であり、それに取って代わるレベルの画期的な発明はまだなされていない。スマホやタブレット発で指紋や顔の認証が実装されているものの、例えばスマホで顔認証に失敗したときパスコードが求められるように、現時点ではパスワード認証のおまけ程度の振る舞いしか許されていない。

したがってパスワードは、Webサービスを安全に継続して使うための生命線だ。自分は忘れず、他人には推測できず、各サービスが定めた要件に則ったパスワードを決めねばならない。これはとても難しく、ミスを犯しやすい。ミスを大別すれば、簡単すぎるか難しすぎるかだ。

ここ10年で隆盛が著しいSNSでは、アカウントごと乗っ取られ、他人に成り代わられたり大量の広告を投稿されたりする被害が相次いでいる。こうなってしまう原因のほとんどは、予測可能なほど簡単なパスワードにある。アルファベットと数字を含み8文字以上。これがWebサービスの典型的なパスワード要件だ。したがってユーザーが設定するパスワードはたいていアルファベット+数字になる。その中でも、下の名前+誕生日4けた、大文字が必須のときは頭文字、という形は最もポピュラーだろう。これをハッカーが探り出すのは極めて容易だ。他のサービスでも同じパスワードを使っていることが多いから、自ずと被害は広がってゆく。

たとえばFacebookで生年月日を公開設定にしていたらどうか。姓名は当然公開されているから、探り出すも何も、名前とパスワードをデカデカと書いたTシャツを着て歩いているようなものである。すぐに変更を促すのは言うまでもない。

一方で、サービスごとに違う複雑なパスワードを設定した結果、いざログインするときに忘れて、そのたび再発行する羽目になる「パスワード地獄」に陥る人も多い。セキュリティーを重視する目的で複雑、別々にせよという啓発記事をよく見かけるが、トータルでデメリットのほうが多いと感じる。効きすぎる薬のようなもので、ウイルスと同時に必要な菌までやっつけてしまい自分の首を絞めるのだ。

また、パスワードに加えてその時ごとに発行され送られてくる認証コードを入力して認証する「2段階認証」の導入も盛んだ。オンラインバンキングや仮想通貨などの分野では必須になっていることが多く、異論はない。だが「2ファクタ認証」の名で半強制的に導入されたAppleIDのそれには、しばしば困らされる。高齢のiPhoneユーザーが知らない間に2ファクタ認証を有効にしたがそもそも仕組みを理解しておらず、突然出てくる謎の地図表示に驚いて相談してくる事例に事欠かない。冒頭に述べた「パスコード」も同様だ。これらも複雑すぎるパスワードと同じカテゴリの問題だろう。

結局どうすればよいのか。今のところ僕がやっているスタイルは次のようなものだ。

まず、姓名や住所などに全く関係しない英字のフレーズ8文字(A)と、乱数的な数字16ケタ(B)を決めた。元来は覚えにくい性質のものだが、中学生の時に決めて以来変えていないので強固な記憶になっている。これを、各サービスの要件に従って、左から必要な文字数分だけ使う。たとえば要件なしまたはアルファベットのみで可ならA、英数字混在からA+Bの最初4文字、さらに字数が求められるときはBの文字数を増やす、記号も必須ならAB間に「-」(ハイフン)といった要領だ。上記の規則をすべてのサービスで踏襲する。同じパスワードを複数サービスで使うわけで、賛否両論あろう。しかし、自分自身の首を絞めては元も子もないという考えを踏まえたバランスだ。

万一ハッキングの被害にあったときは、その規則性を一旦リセットして、別のフレーズと数字を決め直し、各サービス一斉にパスワードを変更していくことになる。僕のスタイルではこの手間はリスクとして自覚しておく必要があるだろう。

そしてこれらを記録するパスワード帳は絶対必要だ。お客さんにも事あるごとに作成をお願いしている。僕の場合は自作の業務管理システムがあるのでその中に記録しているが、Excel等の表で管理するのが一般的だ。サービス名、ID、パスワード、URL、備考。この程度の列で足りる。もしそれがハッキングされたらどうするのかというのは当然に心配だろう。Excelほか表計算アプリでは、ファイルを開くときにパスワードを求める機能が広く搭載されているので、これを使うと良い。いわばマスターパスワードを使うしくみだ。パスワードの上塗りかよという悲嘆の声が聞こえてくるが、無視する。もとい真面目に返答すれば、一貫性に従うなどして、ストレスを軽減されたい。

パスワード管理の難しさについて皆さんはどうお考えだろうか。この問題に対する人間の試行錯誤はまだしばらく続いていくことになりそうだ。

2018.09

#10

プログラミング」が我々を迎えに来る時代になったと思う

多くの人にとって「プログラミング」という言葉から連想されるのは、アプリケーションを作るために、専門的なスキルを持ったプログラマーがキーボードをカタカタ叩いて書き連ねる、全くビジュアル的でないコードの塊ではないだろうか。だがここ数年で、その概念は急速に変わり始めた。

そもそも「プログラミング」によって形作られる「アプリケーション」とはなんだろうか。四角いウィンドウのことだろうか。ホーム画面に並んだ角丸のアイコンのことだろうか。たしかにそれらはアプリケーションの一要素ではあるが、本質ではない。それはすなわち、ある入力によって、それが加工された出力をもたらすものだ。もう少し噛み砕けば、何かに役立つ処理をパソコンに実行させるための命令の塊とも言えるだろう。

2020年から、日本では小学校から高校まで、プログラミング教育が必修化される。その新学習指導要領には、プログラミング教育は「コンピュータに意図した処理を行わせるために必要な論理的思考力を身につけるための学習活動」と定義されている。そう、つまりプログラミングはすべてコードで命令する必要はないし、その知識が本質なのでもない。パソコンくんに何かをやってもらうための感覚や思考が肝なのである。事実、小学校のプログラミング教育で使用が見込まれていて、徐々に増え始めた子供向けプログラミング教室で広く採用されているのは、「Scratch」という、マウス操作で命令を組んでいく言語環境である。

「そんなのは教育用だから平易な仕組みであるだけだ」と思う方もおられるかも知れないが、それは違う。オフィスソフトやネットサービスをもっぱら利用するような非プログラマが、日々のルーティンワークをパソコンに自動処理させる「IFTTT」「Integromat」といった新鋭のWebサービスは、全くコードを必要とせずに事実上のアプリケーションを作成することができる。しかも自分専用のだ。

たとえば僕は、上記のサービスを使って7つほどのアプリケーションを作り、これまでコードなしでは考えられなかったような生産性の向上を体感している。いくつか紹介したい。

【出ますボタン】仕事先から帰るとき、iPhoneのウィジェット画面に置いた「出ます」ボタンを押すと、僕と妻のLINEトークに「とみが仕事場を出ました」という文章に続き、現在地の住所、自宅までの距離と概算所要時間が通知される。妻はそれを見て、晩御飯の準備、子供に先に食べさせるかなどの段取りを行えるわけだが、この通知を毎回手動でできるほど、僕は真面目でない。ボタン一つでできることに大きなメリットがあるのだ。

【Amazon購入履歴データ化】Amazonで頻繁に買い物をするが、その記録をいちいち経費一覧に書いていくのは面倒だ。データ化アプリケーションは、毎日深夜4時に、直前24時間のAmazon注文メールを取ってきて、商品名と価格を抽出し、経費一覧表に行を追加してくれる。付け忘れや書き間違いの恐れはゼロになり、妻に怒られることはなくなった。iPhoneアプリやメルマガの月額決済にも同様の処理をさせている。

WordやExcelにも実は自動処理の仕組みは搭載されていて、長い歴史があるが、いかんせんコードなしではほとんどまともなものを作れない。このあたりの大手が仕組みをもっと洗練させていれば、世界中の事務処理がいかほど短縮され、家族や友人との時間に当てられたかなどと考えてしまうほどだ。とはいえ、前述のようなサービスの登場に触発されて、進化の速度を速めることにはなっていくだろう。

このように、一般の非プログラマがプログラミングのスキルを上げていくのではなく、プログラミングそのものの難易度がどんどん下がり、我々へその門戸を広げてくれていることがよくわかる。ただし、コードは必要ないにしても、新学習指導要領にもあるような「感覚」「思考」はあったほうが格段に作成の効率が上がる。その理由は、パソコンが人間よりも遥かに融通が効かないことに尽きる。

たとえば、Amazon購入履歴データ化アプリで、「商品名と価格を抽出」と簡単に書いたが、確かに人間にさせれば一瞬だ。しかしパソコン相手だと、商品名がメール本文のどの位置にあるか、その規則性を僕が発見し、「『注文内容』の文字を発見したら、その5つ下の行を、最初のスペースを除いて行末まで抽出しなさい。その3行下に区切り線がない場合は…」といった具合で命令に盛り込んであげなければならない。日本語の形でいいから迅速明確にこれが思い浮かべられなければ、マウスであれ音声入力であれ命令ができないのだ。

ITの分野においては、一定の基礎的な能力さえ持っていれば、細かい手法面の進化に戦々恐々とする必要はなく、向こうから迎えに来るということの繰り返しなのだが、これはそもそもパソコンが人間の道具として開発されたのだから至極当然で、パソコンのせいでこちらの精神衛生が害されることが本末転倒という他ないのである。

2018.12

#11

ローカライズで、アプリメーカーのやる気とセンスは概ね分かると思う

我々が利用しているパソコンの端末、OS、アプリケーション、どれを取ってもグローバル企業は不可欠だ。国産メーカーのパソコンでも部品レベルでは輸入品だし、OSは日本国内に有力なものがない。アプリは物によっては地産地消的なものもあるが、OSの機能を使っている以上混じりけなしとは行かない状況にある。

そのような中でアプリに必要になってくるのが、現地語化いわゆる「ローカライズ」である。まずはじめにアプリは制作する人やメーカーがある国の言語、または英語で作られる。それを世界に売り出すには、それぞれの言語で表示させることが起爆剤になる。大きく言語構造が異なる英語への苦手意識が強い日本においては、英語表示というだけでアプリの利用を敬遠するという人も多いから、余計に重要だと言える。

「Google翻訳」などのWebサービスで英語を翻訳してみたことのある人は多いと思う。一見ちゃんとできているようで、読んでいくとずっこけるような意味不明の翻訳になっていることはままある。現状でもそうなのだから、アプリのローカライズは到底自動化できず、各言語の話者を集め人力頼りでやってきたことは想像に難くない。ローカライズはとても労力がかかる作業で、できること自体が制作サイドの体力を表すものなのだ。

日本語へのローカライズについて振り返ると、2010年ごろまでは、Microsoft(MS)製品のローカライズは、たいへん気合が入っていたように感じる。細部の設定画面まで徹底して日本語化され、英語がむき出しの部分を探すのに苦労した。ただし、日本語にはカタカナという最強のごまかしツールが存在する。そう、英単語をとりあえずカタカナで書いとけばいいか、というのができてしまうのだ。「リモートプロシージャコールに失敗しました」といった、高齢の方が見たら静かにパソコンの使用を中止するようなレベルの難解なカタカナ語が一気に増加したことは、一応の徹底のために仕方なかった部分かもしれないが、パソコンユーザーの進化において罪な部分だったとも言える。

他方その頃のApple製品では、難解さを取り払うことが第一に考えられ、ひとつひとつのクオリティは高かったが、やはり引き替えにローカライズが追いつかずに英語のままの部分が散見された。

その景色は、ここ数年ほどで変わってきた。

まずMSのローカライズ精度が顕著に落ちてきた。一応英単語ではないものの、全く意味がわからなかったり、文法的に語順のおかしい日本語が増えてきたのだ。Windows 8以降のOSそのものの迷走で、頻繁に画面デザインが変わり、その都度すべてをローカライズする余力が奪われてしまったこと。Windows 7までで商業的に大成功を収め、その余力で販売できてしまっていること。MS内の興味対象が3Dメガネや医療分野などに移り、OSやオフィス製品が遺産的な位置づけに堕しつつあること。このようなファクターが重なっているのだろう。今では一部でGoogle翻訳レベルの自動化がされていると強く推認される箇所も出てきた。

AppleはiPhoneの成功で大幅にユーザーを増やし、重要インフラ化している。特に日本は世界の中でもひときわiPhoneが売れている市場のため、膨大なコストをかけて質量ともに追求している様子が伺える。また、新規参入のAndroid(Google)は近未来のOSの覇権をAppleと本気で勝負しているのもあり、手抜かりなく人間が頑張っている。

このように、アプリのローカライズの出来不出来は、メーカーの本気度を測る良い指標だと言える。営利企業であるメーカーに多くは求められない部分もあろうが、もはやインフラ化したようなOSやアプリのローカライズで手抜きをすることは、ユーザー全体の生産性を確実に下げ、長期的には進化の速度を遅めたり、逆噴射させたりする深刻な事態を招きかねないということを、よく考えてもらいたい。

ユーザー側の心得としては、ここはやる気がないね、と感じたとき、笑い事ではなく、それは近い将来日本語サポートが無くなる、アプリの開発そのものが中止になる、といったことを心配すべきだ。そうなる前に代わりのOSやアプリを探しておかないと、それまでやっていたことができなくなることを意味するからだ。

ローカライズは、画面表示を現地語化する他に、各地独自の概念に対応することも含まれる。日本について代表的なのは、縦書きや和暦の元号への対応だ。この年始、Excelが新元号対応準備のアップデートが入り、一部バージョンで起動しなくなる惨事となってしまったが、このような措置をコンスタントにやってくれているかも、製品選択の上で大事にしたいところだ。Apple版の文書作成アプリでは未だに縦書きができない。この点は膨大なビジネスユーザーを抱えたMSに分がある。

僕は特に個人で作っているような小さなアプリの作者には、カタコトの英語でもってローカライズのおかしい場所を指摘したり、対応を要望したりするようにしている。ユーザーが自ら声を上げ、メーカーに対応を迫っていくことも重要なことだ。

2019.02

#12

改元は、アプリのアップグレードとクラウド化を推進すると思う

この4 月1日、ついに新しい元号「令和」が公表された。いざ耳にすると、その意味合いがどうであれ、時代のリセットを否応なく感じ、たまにこういう事があっても悪くないなと思ったところだ。

今回は生前譲位の性格上、新元号は事前に公表された。これが伝統に則っていないとする保守層からの批判がちらほら聞こえてくるが、西暦表記で統一できていない以上、ある日とつぜん元号が変わるというのは、企業が発行する伝票の表記などシステム改修の都合上きわめて不都合だ。このIT隆盛期にあっては社会全体の活動に大きな損失をもたらすだろう。(1ヶ月前でも遅すぎるぐらいだが。)その点で今回の天皇の生前譲位という決断は時代に即応しているし、今後これが慣習になっていくべきだ。

さて、いま言った「システム改修」について掘り下げていくが、パソコンのアプリを新元号に対応させるとは、具体的にどういうものだろうか。これは各ユーザーがアプリをどのような形態で利用しているかによって、時間もお金も内容も異なってくる。

まず、開発業者などに依頼して自社専用のシステムを作っているときは、その業者にアプリの中身を編集して、新元号に対応してもらわなければならない。規模が大きければ、かかる時間やお金は莫大になる。柔軟性はあるがコストが高い。これは自前システムの強みであり弱点でもある。

「弥生会計」や「Excel」など、市販の既製アプリをインストールして利用する場合は、新元号に対応する「アップデート」、またはバージョンを一気に新しいものにする「アップグレード」が必要になる。ふつう前者は無料だが後者は有料だ。あるていど最近のバージョンを使っていないと、無料でアップデートさせてもらえないことが多いから、使い慣れたバージョンを長年使い続けているケースでは、大枚をはたいてアップグレードするかどうか、真面目に検討するきっかけになる。

上記2つはパソコンの勃興期から長らく存在してきた利用形態であるが、ここ数年で生まれ急速に広がってきたのが、インターネットブラウザからアプリ(サービス)にログインして利用する、いわゆるクラウド利用である。使用料は月額や年額で継続的に支払う。この場合、プログラムはユーザーのパソコンの中ではなくインターネット上にあり、提供元はいつでも改修が可能だ。追加コストもない。だからある日ログインしてみたら、新元号に対応しているじゃん、ということになる。今回のようなケースでは難しいことを最も考えなくて良い利用形態と言える。

以上3つの形態を比較するとわかるように、改元のような大きなルール変更が生じたとき、自前システムは個別対応、インストールするアプリはアップグレードを強く促す結果になるが、そのコストや手間の程度を悟り、ほとんど何もする必要がないクラウド利用へと誘導される結果になる。ふだんクラウドをぼんやり新しいものとして捉えていた人々も、現実の問題を前にして真剣に考え、メリットを学ぶ。その点では、なにかとグローバル化の障害として批判される元号や改元は、国民のIT知識を深めさせると言える。また、システム改修やアップグレードも同時多発的になされ、システム開発やアプリメーカー業界の経済を潤すことは確かだ。

このような良い方向の効果は、古来からそれぞれの世の文明レベルによって形は違えど、その都度もたらされてきたに違いない。そう考えれば、前述の心理的なリセット感と相まって、西洋にはないユニークな政治経済的仕掛けだなと感嘆する。

ただ公表のタイミングはもちろんのこと、政治の側がきちんと改元に関する諸々のルールを明確にしなければ、逆効果になってしまうことは言うまでもない。今回の改元についてひとつ喫緊の課題をあげるとすれば、「令和元年度」問題だ。というのは、この5月から来年3月までの期間を「平成31年度」とするのか「令和元年度」とするのか、実ははっきりとした答えが示されていないのだ。国自体は予算の名前を5月以降「令和元年度予算」とすると決めたとのことだが、地方自治体に対しては表記をどうするかについてそれぞれの裁量に委ねるらしい。これはいただけない。パソコンのプログラムに「どっちでもいいよ」などという命令は通用しない。やはりここは国として見解を示し、表記を全国的に統一すべきではないか。それにより、民間企業等の各システムも、統一したプログラムで効率的に運用できる。

人生は基本的にひと繋がりでリセットなどできないが、日本にはちょっとだけ気持ちや行動をみんなでリセットする不思議な仕掛けがある。そしてそんな一見無茶なことを挙行するには当然ついてくるコストと、その思わぬ副産物について論じてみた。こんなことを服喪の自粛などなしに書けることもまた生前譲位の効果と言えるだろう。

2019.04

#13

いまPC市場は、デフレ真っ只中だと思う

四捨五入すれば創業約20年の僕であるが、ここ2年ほど、PCの代理購入においてそれまでとは状況が大きく変化をみせている。中古PCをYahoo!オークション(以下「ヤフオク」)で調達する機会が突出して頻繁になったのだ。Macは綺麗さへのこだわりから新品を求める向きが依然あることや、古い年式のものは最新バージョンへのアップデートを禁止されるなどシビアに切り捨てが行われるOSの性質上、ヤフオクでの調達は限定的だが、ことWindowsでは顕著だ。

「PCを少しでも安く買いたい」というクライアントからの要望は、言わずもがな、昔からずっとされてきた。しかし、安かろう悪かろうでは結局次の買い替えが早く到来し、長期的に見ればコストは無駄に膨らむ。耐久性に問題がなくても、日々の使用でストレスがたまるような低スペックなモデルを勧めるわけにもいかない。このような理由から、基本的に一定以上の価格帯の新品PCを提案してきた。ところが、2017年ごろからヤフオクに出品されている中古PCの質が急に上がり始め、避ける理由があまりなくなった。この変化はいくつかのできごとが重なって起こっていると考える。

1つめに、パソコンの頭脳に相当するプロセッサ(CPU)の性能が、2010年ごろからほとんど停滞している。2000年代半ばまでのPCのCPUは、年式が1年違えば同じ処理の所要時間が半分に短縮されるというほど、進化が極めて速かった。(だから旧式のPCは安値で中古市場に出回るが、かと言って購買意欲をそそるわけでもない。最新機種の購入が鉄則なのだ。)それが2000年代後半にかけて徐々に鈍化し、ついに一般向け市場では特にほぼ落ち着くに至った。OSが次々に新機能を搭載する模索の時期を終え、世界的なインフラとして安定がより重視される時代を迎えたことで、要求するスペックが上げ止まったことが大きい。

2つめは、データを保管するストレージ部品の世代交代だ。フロッピーディスクから起動するDOSの時代を大きく変えたのは、Windows 95の登場だった。以来PCにはハードディスク(以下「HDD」)が内蔵され、大容量のデータ保持が可能になった。だがHDDは他の部品と比べて耐久性が悪く、PC故障の原因の過半数がHDDと言われるほど、PC寿命にとって最大のボトルネックになっていた。これを克服したのが、ソリッドステートドライブ(以下「SSD」)だ。HDDが磁気の円盤なのに対し、SSDは半導体。静音、高速、高耐久の3拍子が揃った新世代ストレージである。当初はやはり価格面で大きく差があり庶民には手が出ないものだったが、タブレット機器への搭載を契機に2015年ごろから低価格化し、広く使われるようになった。

3つめは、上記の変化がどうであれ、数年おきにPC設備の置き換えを行う官公庁や病院の存在である。コストにシビアな民間企業にとっては羨ましい限りであるが、特にHDDの耐久性が頭をもたげていた状況下では、一律の置き換えはトータルで見てそんなに不合理な選択でなかったことも確かだ。ただ前例主義の組織ではやり方が習慣化しており、前提条件が変わってもその変更まで数年のタイムラグが発生する。

さて、これらが組み合わさるとどうなるか。

2010年ごろのPCは、プロセッサは今とそう変わらないが、ストレージはHDD。これが故障で動かなくなる。裏を返せばHDD以外はピンピン動いている。だがしかし一般消費者は「もう寿命だ」と判断し、廃棄する。官公庁等では故障の有無に関わらず定期的な置き換えによって放出する。これらを二束三文で買い取った業者はそれらのPCのストレージを低価格化した新品のSSDに交換する。CPUの性能はほぼ進化していないので、現在の最新機種と殆ど変わらない。その上、ストレージは新世代化して、HDDのときでは考えられなかったようなスピードでWindows環境が動作する。これを3〜5万円でヤフオクに出品する。

機種を選定する僕にしてみれば、新品で10万円代後半するような最上級機種と同等のものが、見た目のクールさは劣れど、5分の1から3分の1程度の価格で手に入るし、耐久性を心配することなく提案できる。気にするとすればOfficeが入っているかや、ノートPCのバッテリー寿命、表面の目立つ汚れや傷ぐらいだ。もっとも2010年式となれば、今と変わらないような薄さと軽さのモバイルPCは普通にあるし、即決価格で購入すれば新品のバッテリーにして売りますというものまであったりして、至れり尽くせりだ。

このように、PCを構成する要素の進化停滞と世代交代という相反する流れが交差する中で、特異な状況が生まれていると言えるだろう。しかも、PCでやっていた作業がスマホでもできるようになり、PCの存在感が相対的に低下し、メーカーも絶対にPCで儲けなければならないという熱意がなくなっている。新品優位の仕組みを作ることも特にしない。価格低下が業界の弱体化をもたらしているわけで、まさにデフレである。栄枯盛衰かく起これりと言う感じで、一時の便利さと寂しさで複雑な気持ちになる。

2019.06

#14

人間の能力は、道具の機能性と不可分だと思う

次々にやってくるお客さんのパソコントラブルに向き合いやっつけていくのが僕の仕事だ。ケーブルが違うところにささっていた等ごくごく初歩的なものから、複合的な要因を地道に取り除かなくてはならない難解なものまで、その内実は多種多様だ。

トラブルが解決したとき、お客さんはもちろん喜んでくれる。そのうえで、この解決は僕のスキルによってなされたものと認識される。たしかに長年の蓄積によって短時間のうちに勘所を見出し解決してしまう事例もなくはないが、実のところ殆どは、知識として持ち合わせていない事柄だ。その場でスマホを持ち、世の中に同様の事例があるかどうかGoogleさんに聞く。大抵のことには先例があるので、出てきた記述に基づいて試行錯誤し、どこかで正解を引き当てる。

この流れのキーポイントは、言うまでもなくGoogleだ。これを巨大な図書館に例えてみよう。

過去の事例が書いた本があるかないか。なさそうならばさっさと図書館を出て別の方法を考えたい。ありそうならばどのカテゴリにありそうか目星をつけて行く。たどり着いたら、どの書棚にあるか目を凝らして探索する。見つからなければ、別の切り口のカテゴリをあたる。とりあえずそれっぽいものがあれば、手にとって開いてみる。余計なページは全部飛ばしたい。ざっと見てだめだと思ったら、すぐに次の本に移る。

僕がGoogleを使ってやっているのはこういうことだ。答えはどこかに書いていることが多いが、どこに答えが書いてあるかの答えはない。これを見つけ出し、解決に資さないものを振り落とし、トライする。このサイクルをいかに速く回すかが、僕がプロとして問われている実質的なスキルであろう。

ここで重要なのは、「僕のスキル」とやらが決してGoogleという道具の機能性と分けて評価できないということである。

古来から人間は常に道具とともに生き、能力を拡張してきた。料理のスキルは、火、水などの自然物と調理器具でもって材料をどう扱うかであるし、スピーチのスキルでは、限られた日本語の語彙をどうやりくりするかが大きい。これらすべてに言えるのは、人間が活用方法を進化させていくに従って、道具の方も改良されていくことだ。

ITやAIの出現も、もちろんこの流れの延長線上にある。ただ、メディアアーティストの落合陽一がAI時代を「魔法の世紀」と形容したように、これまでの道具と比較してAIがあまりに予測を超えたアウトプットをもたらすため、人間のスキルとの一体視を忘れ、「AIすげー」と独立して評価しがちだ。

これも、魔法は魔法使いがいて初めてポテンシャルを発揮できるのだと冷静に考えれば、なんてことはない。あくまでITもAIも人間が作った製品、人間が書いたプログラムだ。これらにどのようなインプットをいかに迅速に行うことができるかが全てである。逆に言えば、インプットが頓珍漢だと、結果の悲惨さも極端になる。

以上の前提に立つと、巷にあふれる常識が違って見えてくる。

まず、「人間の仕事がAIに奪われる」という言説はおかしい。「AIを使いこなせない人の仕事が、使いこなせる人に奪われる」なら、厳しい現実には変わりないが合理的帰結として考えうる。人間がより自然な形でAIと対話できるような進化がなされ、普通に生活していれば使いこなしているという状態に近づいていくにせよ、そのバックグラウンドで仕組自体を作る側と、その恩恵を享受する側との格差は自然にはなくならないだろう。

また「ITやAIによって人間が退化する」とよく言われるが、正しい間違っている以前に意味がない。これまでだって人間は、たとえばより高性能な衣服や冷暖房の登場によって、臨機応変な体温調節機能を徐々に失ってきた。これを退化と呼べなくはないけれど、その辺の性能がマッチョであっても、利用されないから無駄でしかない。重要なのは同じ気候条件下で生存率が上がったということで、この観点では間違いなく進化しているのである。

さてこのように考えると、「自立」と「依存」の境目がだんだんわからなくなってくる。たとえば仕事をやるにあたって、群れないタイプの人と、とにかく人脈を増やすタイプの人に大別される。前者が「自立型」、後者が「依存型」と割り切れるだろうか。結局どちらも様々な道具に依存しているではないか。行き着くところ、依存の質と量を洗練させていくところにしか、その人を強くする方法はないように思われる。「人間一人では何もできないのだ。」に続けて「人『や道具』を大事にしよう。」と追加すべきなのは、IT時代ならではの変化かもしれない。

したがって、良い人間と付き合いたいと思うのと同様に、良い道具を選ぶこともかなり重要と言えよう。ましてや道具のクオリティはほとんどお金で解決できる。ITデバイスは費用対効果が絶大だ。道具のせいで自分のアウトプットが制限されるなどといった残念な時間は1秒でも縮めたいところだ。

2019.08

#15

学校は、もはや教育の場である必要がないと思う

数年に一度、香川県内の中学校を訪れる。中学生を相手に、自分の仕事や人生観について語る「仕事語り部」という活動に参加しているからだ。今調べたら、初めての訪問が10年前だった。

無邪気に声をあげ挙手していた小学校から打って変わり、多感な時期に入った彼らは自分の意見を表明することに慎重になり、常にまわりの空気を読んでいる。これはずっと変わらない光景だ。

こちらから粘り強く聞けば答えてくれるが、その回答の雰囲気は俄に変わってきた。ひとことで言えば、「大人になりたくない、未来が楽しみでない」と考える子が増えた。周りの空気を読んで「うれしげな」発言を控えている分を差し引いても、そのような雰囲気が全体を覆っているようにしか見えない。

とは言え、僕が話しているときの肌感覚では、おとなしい中にも一人ふたり、自己肯定感強めの個性的な子がいて、場を盛り上げてくれたりしたものだが、そういった子も年々減って均質化しているようだ。

一体全体、自分を含めて大人達は、これまで子供に対して何をしてきたのだろうかと思わざるを得ない。こと学校に注目すると、社会の変化にマッチせず有害な影響を及ぼしているのではないかという事例が目立つ。早めに断っておくが、現場で必死に頑張っている先生達を責める気はない。先生も含めてみんなで固守している現行の学校の「システム」に問題を感じるのだ。

学校は特に中学から、授業、テスト、成績評定が基本のリズムとなり、すべてのスケジュールや部屋のレイアウトが決まっている。要するに「勉強するところ」だ。これは、IT以前の世の中では、先生や本こそが情報であったので、それなりに強みとして効果的に作用してきた。そうして貴重な学びの体験を享受することそのものが子ども達の自己肯定感を醸成してきただろう。

ところが現代では、情報はインターネットに膨大に転がっており、さりとて検索サービスによって目的のものに容易にたどり着ける。Wikipediaには学問の基礎となる言葉の定義や人、物の意味について教科書よりまとまった記事があふれ、YouTubeでは、通っている学校の先生よりもずっと面白い歴史の講義を、しゃべくりのプロである芸人がやっていたりする。教科書と比べ情報の信頼性がどうかと訝る人もあるが、鎌倉幕府が始まった年号もすでに昔とは異なっているように、教科書も絶対のものではないし、そもそも正謬まざりあった中からその都度どれを選び取るかが極めて重要な時代で、唯一の情報ソースを受け身で信奉して済むものではなくなったのだ。

また、前回の本コラムで僕は「人間の能力は道具の機能性と不可分だ」と言った。人間が道具や周りの人とのコミュニケーションを禁止されている状態で測定する「能力」とやらに、さほどの意味があるだろうか。たとえば、電卓があるのに、皆で6桁の数を暗算する能力を競うことに、ゲーム以上の意義があろうかということだ。

そう考えると、学校のテストは、現代においては不毛な営みに他ならないではないか。それどころか、人の潜在的な心を孤独にさせ、助け合いを拒み、そもそも意味のない点数によってせっかく持っていた自然発生的な自信を刈り取ってはいまいか。男性として生まれながら女性装を始めた東大教授の安冨歩氏は「学校は子供を虐待している」とまで喝破するが、僕はさほど言い過ぎでもないと思う。

そして、友達作り、人格形成、はたまたいじめといったものは、前述の本体活動の隙間の事柄として位置づけられる。しかし、本体活動が学校外でいくらでもできるようになってきた今、この隙間に挟まったもの達が学校機能の中核に躍り出てくる他に、これからの学校の存在意義はないと感じる。

昨今の痛ましいDVやいじめのニュースで、児童相談所などサポート機関が人員不足でまったく措置が追いつかない現状が盛んに報道される。もう数学の基礎知識はどこかの動画を流しとけばよいから、先生達は自分の授業を考える代わりに、子ども達が抱える様々な心身の問題をサポートする方に回ろうよ。

そして、最低限の基礎知識を提供したあとは、答えではなく問いを作るような誘導、知りたいことをどうやってネットで検索するか、一人では抱えきれない問いをどのように友達に聞いて、意見交換し、協力して解決するか、という、道具や他人とのコミュニケーションを主軸にした学びに転換しよう。評定もほとんどチーム単位で良い。授業と心身サポートがそれなりに両立できるようなリラックスした場の提供を実現できれば、子ども達は行くなと言っても学校に行くだろうし、自己肯定感、未来への希望も自ずと湧いてくるはずだ。

「自分は学校に行かない」と宣言した子どもユーチューバーも出現した。過去の慣習に囚われずに学校のあり方を問い直す機会になってほしいと強く願う。1歳の子供の父親として、また教育の片隅に居る人間として、現状が看過できないのだ。

2019.10

#16

シンクライアントは、家庭利用のPCでもやるべきだと思う

これを執筆している今、政治の世界では首相主催の「桜を見る会」をめぐり、有権者の買収や反社会的勢力との関係について真相を糺された政府与党が守勢に回っている。安倍首相は本会議で、「内閣府は『シンクライアントシステム』を採用しているため、破棄した同会の名簿データは各端末に存在せず、復元も困難である」などと答弁した。

「シンクライアント」の英語表記は「Thin Client」。直訳すれば「狭い端末」だが、要するに人間が日常作業で触るPCの役割を最小限にする考え方である。(その逆は「リッチクライアント」と呼ばれる。)

PCの役割とはどんなことか。キーボードやマウス等を通じて人間からの入力を受け取って、画面に物を映したりスピーカーから音を鳴らしたりする。大事なことを通知して人間の返事を促す。ファイルを読み込んだり保存したりする。プリンタなど外部の機器と連携する。

これらのうち、現状のシンクライアントシステムで絞り込んで各端末から除外しているもっとも主要な役割は、データの保存の部分だ。作成したデータを各端末ではなく、別に構築した同じ建物内のサーバーや、インターネット上のクラウドストレージに保存するのだ。本格的なシンクライアントだと、様々な役割を取り持つWindowsなどのOSやアプリケーション自体もサーバーに委ねる。これらの主なメリットは、各端末が壊れたりしたときも、重要なデータを失わない安全性と、代替端末を整備時、環境をゼロから構築し直す必要がないことだ。

前述の首相答弁、というより首相が棒読みさせられた理屈というのは、こういうことだ。名簿をどこかの端末で誰かが作成したことは当然だが、保存場所はその端末内ではなくサーバーだ。だから作成した端末にデータは残っていない。サーバーのデータも破棄したから復元できない、と。

データは、ある一つの場所に置いておくか、いろいろな場所にコピーして置いておくか、いずれがより消滅のリスクが小さいだろうか。もちろん後者だ。しかしシンクライアントシステムは各端末からファイル置き場の役割を取り上げてしまっているので、サーバーだけにファイルを置くことになり、方向性としてはデータ消滅リスクを高める。だから、サーバーのバックアップを何重にも取り、欠点をカバーする。もしあなたがシステムを構築する人間であっても、そうすることだろう。

首相答弁のおかしさは、最後の「サーバーのデータも破棄したから復元できない」にある。シンクライアントだからこそ、堅牢なバックアップが存在していて、各担当者の裁量になりがちなリッチクライアントより、復元できる可能性はかえって高まるのだ。

ところが、突如発された専門用語に、ITに弱いこの国の政界も報道もにわかに翻弄された。直後の官僚からのヒアリング会合で答弁のおかしさを指摘する野党議員は1人だけ。翌日の朝刊に何の指摘もなく発言記事を掲載した新聞社もあった。読者の多くも、なんだそれ、となったのではないか。これを読んだ今もなお、大きな組織のシステムの話で、自分とは縁遠いことがらだと思っている方も少なくなかろう。

シンクライアントシステムは、実はスマホを中心に個人利用の現場にも広く浸透している。スマホはPCと比べてファイルストレージの容量が小さく、その中にすべてのファイルを置いておくのに適さないからだ。iPhoneならiCloud、AndroidならGoogleドライブに写真などのデータを保存する方式が標準で、スマホを壊してしまっても、機種変更ののち前述の場所にあるバックアップから環境をまるごと復元できてしまう。これこそシンクライアントの典型なのだ。

一方、PC環境は、考えて自分で構築しない限り、リッチクライアント的な運用になってしまう向きが強い。演算能力もストレージの大きさも十分なものが多く、何でもできてしまう分、外部に役割を委託する必要性が一見ないからだ。だがこれも端末が故障したとき、バックアップを取っておらずデータをすべて失ってしまったりして、リッチクライアントの脆弱性に向き合わざるを得なくなる。

僕は、顧客にはPC本体でなく外部にファイルを置いておくシンクライアント的な考え方をおすすめする。外部とはすなわち、ホームサーバーなどの外部HDD、またはDropbox、Google Driveなどのクラウドストレージである。ホームサーバーは2万円台、クラウドストレージは月額数百円からのラインナップになる。

こうすることで、前述のデータ安全性の向上はもちろん、家族間のデータのやり取り、出先からのアクセスを容易にしたり、直接操作するPCのストレージ容量が小さくて問題なくなることでより安価に購入できたりと、多様なメリットを享受できるのだ。

このように、パソコン環境を目の前の単体の端末としてだけでなく、周辺の機器やインターネットと一体で捉えて考えることが重要だ。政府もそうできていれば、何百億もかけて構築したシステムをコケにするような謎答弁が出てくることもないのである。

2019.12

#17

香川県のスマホ条例は、大人の行動こそが問われていると思う

1月中旬、「ネット・ゲーム依存症対策条例」の素案が香川県議会に提示された。ぜひQRコードから素案に目を通していただきたい。内容は全体として総論的で、家庭内での努力義務を要請するものだが、「子どものスマートフォン使用等の制限」を規定した18条の2において、「子どものネット・ゲーム依存症につながるようなスマートフォン等の使用に当たっては、1日当たりの使用時間が60分まで(学校等の休業日にあっては、90分まで)の時間を上限とする」と、目安ながら具体的な数字が盛り込まれたことが悪い方向にアイキャッチになってしまった。全国放送で盛んに報道されたのもあり、ネットを中心に批判が続出した。その後、この条文は冒頭が「子どものネット・ゲーム依存症につながるようなコンピュータゲームの利用に当たっては、」と変更されたほか、事業者に対して「射幸性が高いオンラインゲームの課金システム等」の自主規制を求める文言が追加された。

批判の主な方向は、ひとつには「古臭い大人が根拠もなく子どもの自由を奪っていじめている」といったものだったと僕には見える。友人とのコミュニケーション、調べ物など多様な分野で重要な位置を占めているスマートフォンそのものの使用時間を制限することで、子どもの創造性を奪い、将来の可能性を摘んでしまうのではないか、という懸念は、筋として理解できる。条文変更はそのような観点で行われたのだろう。

もうひとつは、「行政が家庭内のことに介入するとはけしからん」というものではないか。権力の監視という意味では外見上真っ当な批判ではあるけれど、今回の素案に対しては少しすれ違ってはいまいか。使用時間は目安だし、実際上は家庭内で取り決めてくださいというお願いベースのものである。そもそもこれらをどうやって取り締まるというのか。わが子の使用時間超過を目撃したと、親が通報するわけもないし、日本はさすがに密告制度を喜んで作るような国ではない。また、様々な健康被害で通院したとき、その医療費の自己負担分以外は行政が税金を使って補填するわけだから、医療費の増大を食い止めるべき主体がなんらかの警鐘を鳴らすことはあってしかるべきと考える。

さて上記2つに共通するのは、条例が市民を「過剰に縛っている」というものであろうが、僕は依存症と視力低下を防止する観点で、むしろ「不十分だ」と感じる。

まずもって足りないのは、それなりの根拠に基づく言葉の定義だ。特にゲーム依存が一日平均何時間以上の使用か定かな定義が世に存在しない。条例にするならば、その他の依存症の定義などを援用して、県として目安を定め、後々に科学が違った結論を出せば変えていけばよいのではないか。また、依存症が認定できたとして、そうでない子ども達にまで努力を促す「60〜90分」という時間にも、なんら科学的な根拠は示されていない。対象がゲームのみとなったことによりいくぶん現実的にはなったものの、一見するに短時間すぎて、現代の生活に支障をきたさないかと心配になった。もとより一律の時間制限が正しい方向なのか、僕はかなり疑念を持って見ている。

この条例は、子どもの行動について言及しているように見えて、実はそれを監督する大人の心配りに中心が置かれていることは言うまでもない。その大人がネットやゲームに相当の時間とエネルギーを費やしている例も散見される。かく言う自身もスマホゲームはするし、全く依存していないと胸を張って言えるわけではない。そのような大人が本気で範を示し、子どもを適切に監督していくには、行政としてはまずやりすぎるリスクについて大人を説得し、納得してもらわなければならない。その説得力の基礎が根拠だ。意図しないまでも結果として、しっかり自身をコントロールできない大人が子どもを一緒くたに縛ろうとする図を、条例が示してしまったのではないか。

代替案のなさも印象的だ。たとえば高松市内の公園は、球技禁止と明示されているか、実質的に不可能なものが多い。僕は平らな遊び場に恵まれていたため、中学時代に野球ごっこをたくさんしたが、決して体育会的な部活動に参加したいとは思わなかった。僕の見立てでは、スポーツをそのような感覚でやりたいと思う子どもの割合はさらに増えているはずだ。また、明るいうちは塾や習い事で忙しく、スポーツどころか外で遊んでいる暇がないという子どもが多いと聞く。集団競技は頭数が揃わないと成り立たないので、悪循環に陥る。このようにして、子ども達が家の中でのみ楽しみを見つけざるを得ない方向に、大人が追い込んでしまっているとも言えるのだ。

その他、スマホゲームより楽しいことはないのか、ネットやゲームの依存症や視力低下を防止する義務を一義的にどこに求めるべきかなど、まだまだ考察したい点が多いが、字数が来てしまったので、次号に続きを書くことにする。

2020.02

#18

未知の感染症は、日本のIT活用力を否応なくまともにすると思う

前回からの続きで香川県の「ネット・ゲーム依存症対策条例」について書くつもりだったが、新型コロナウイルスの猛威が世の中のムードを一変させてしまった。香川県は現時点では全国の中で最も感染が広がっていない地域のひとつである。良いことだが、それゆえに市民の危機感は東京などと比べ決定的に欠けているように見える。

発生源である中国の武漢市で体育館に病床を仮設したニュースが駆け巡り始めた1月中旬、仕事柄そのへんに詳しい友人からの電話、20年以上購読している国際情勢メルマガ、SNSでの現地発信などが重なり合って、これはただごとではない、日本に影響が及ぶのも時間の問題だと気付いた。なにより気になったのは、タイやシンガポールでも蔓延していることから、温暖な季節になってもどうやら収まらず、長期化が必至であるということだった。

医療崩壊や社会不安、景気後退など、負の要素盛りだくさんの事象である。一方で、長期化するが故に、様々な社会の慣行を変革することになるのではと直感した。

安倍政権が取った最初の大きなアクションは、学校の一斉休業要請だった。以前に学校のあり方についてIT化も絡めて論じたが、学校不要論にも行き着くような大変革の波を、未知のウイルスがもたらしてきた感がある。長期化ゆえに、学校がいつまでもただ休んで、学びたい子ども達の活動を妨げ続けるわけには行かない。オンラインで授業や課題のやり取りをしている海外の国々と比較しても、日本の教育IT化の後進性は際立つ。

ひとまず学校のオンライン化は、従来対面でやっていたものをそのままオンラインで再現する形になるだろう。SkypeやZoomだけでなく、国内に広く行き渡っているLINE でも、グループ通話はもちろん、講師がパソコン画面を配信する機能も先日実装された。また萩生田文部科学大臣も、オンライン授業を単位として認める方針を示した。やろうと思えばすぐできる環境にある。ただし、これを漫然とやっている限りは、あくまで緊急避難の次善策に終わる。もとよりこの形式なら対面のほうがいいからだ。オンラインならではの活用方法を見出していくことが重要だ。

たとえば、ドリル類はすべてフォーム入力になるので、単純な選択問題は自動採点できる。先生の負担を最小限にしつつ、小さな達成感を伴う自習をそれぞれに促せる。また、クラスや学校全体の、問題ごとの正否傾向が一瞬にしてグラフ化できる。先生が目の前にある貴重な一斉配信の時間を何に使うか、的確な選択ができよう。

また、ライブへのこだわりを捨てる大きなきっかけになる。収録配信である。子どもは本来やりたいことがたくさんあって、創造性に満ち溢れている。画一的に朝から夕方まで教室に張り付けておかなくていいのなら、それに越したことはない。大人が勉強好きになることが多いのは、いつでも好きなときに好きなものを勉強できるからだ。

となると、自ずと教材の外注化が促進される。対面のライブでない以上、先生がすべてカリキュラムを組んでしゃべる必要がないからだ。たとえば日本史ならオリエンタルラジオの中田さんが配信しているYoutubeチャンネルはとても面白く立派な教材だ。このような柔軟性は、慢性的に忙殺されている先生のエネルギーを、個々の生徒へのサポートなどあるべきところに振り向けるこの上ない要素となるだろう。

これらの変革は、従来から学校に行けない病気や不登校の子ども達との格差もなくしていく。そして普通に通っていた子ども達にとっても、拘束されず好きなことをする時間をより増やすことができる。学校とはそもそもなんなのかが問い直される。帰結として「軍隊」から「公園」になっていくだろう。コロナ後にとてつもない財産をもたらすはずだ。

さて執筆している今日は緊急事態宣言前夜だが、宣言がなされると、仕事のありかたも更に見直していかざるを得ない。特に都市部の満員電車通勤などはコロナの影響をもろに受けるため、これまで僕達はなんてことをしていたんだと目を覚ます人も多かろう。

日本は今や労働生産性で先進各国に大きく水を空けられている。書類、会議、稟議など、IT化以前にそもそも必要なものなのか、徹底した合理化が求められる。もしもこれが楽しいことなら、いくら無駄でも反対しないが、僕はそれらを省いて浮いた時間、美味しいものを食べたり、温泉や昼寝に使いたい。

業務のIT化にはいろいろな側面があるが、その中でも「情報共有」と「ルーティン自動化」が勘所であるというのが、システム開発をやってきて感じるところだ。スタッフ間のスケジュール共有をGoogleカレンダー等で行う、Dropboxで書類や画像ファイルを共有するなど、お金をかけてシステムを構築しなくてもできることはたくさんある。僕にとっては極めて基本的なことで10年前からやっている。このようにして、日本の労働環境の一定割合が在宅・多拠点化し、不必要な時間拘束が解かれていくべきだ。

2020.04

#19

文字情報は、速い、厳しい、強いものだと思う

5月末、人気恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出演していた木村花さんが、ネットでの誹謗中傷を苦にして自死を遂げた。仕事のプロレスで使っていたコスチュームを誤って洗濯され、使えなくなってしまったことに激怒したことが、視聴者の反感を買ったという。ネットでの誹謗中傷は主にTwitterで繰り広げられたが、その内容は前述の出来事とはおよそ釣り合わない苛烈なものだった。

ここで、当事者で誰が原因か、リアリティーショーの根本的な問題ではないのか、という議論はまたの機会としたい。今回着目したのは、SNSを通じて文字情報で受け取ったことが、よりストレートに心を蝕んだのではないか、ということだ。

20代の頃、制作した名刺に誤植があり、クレームと、校正はちゃんと頼んだよ、という反論の応酬になったことがある。お互い面と向かって言うのを無意識に避けたのだろう、最初は電話だったが適当に終わり、その後数日に渡ってメールでのやり取りになった。同い年だったので、遠慮がないのもいけなかった。結果は、1回目の印刷代の半額+2回目の印刷代をもらうこととなったが、若気の至りで、お互い論破しようとあの手この手の言葉を繰り出し、純粋に誤植の責任範囲の明確化以上の傷を残した。以後、その人とは連絡をとっていない。

それ以来、メール(つまり文字)で絶対に喧嘩してはならない、どうしても伝えるなら努めて抑制的にテーマを絞って書くようにしよう、と心に誓ったのであった。

考えてみれば、ITの世界で音声や見た目が幅を利かせだしたのは本当にここ最近のことで、4Gネットワーク普及以来の動画コンテンツブームからのことに過ぎない。それまではほとんど文字情報のやりとりが主で、現在もその順位が覆るには到底至っていない。

それはつまり、IT活用力はすなわち読解力と言ってもそんなに見当外れではなく、以前はそれがより顕著だったということだ。社会の中で文字情報への耐性が強い人、たとえば長文を読むことをそれほど苦としない人とか、思っていることを簡潔に表現できる人が、黎明期のインターネットのプレイヤーとして支配的だった。そもそも軍事ののち学術用途で広がっていったのだから、当然ではある。「パソコン通信」全盛の牧歌的な時代、前述のような誹謗中傷の騒ぎが少なかったのは、匿名ではなかったとか、利用者が少なかったこと以上に、言葉を操る力、それを文字で表現するスキルが全体的に高かったことが大きいのではないか、とみる。

駆使するには、その性質をよくわかっておくことが必須だ。文字は、他の伝達手段と比較して、どんな特徴を持っているのだろうか。

ひとつには、伝達速度がトータルで考えると速いと言える。トータルでというのは、対面や動画で話していることをそのまま文字化する限りは、文字は不利だからだ。口述は文章の骨組みから見て必ずしも必要でない文節を多く含んでいる。同じ趣旨を適切に文字化すると、その分量はぐっと絞られる。議事録を読むとき、実際の会議と同じだけ時間がかかることはまずなかろう。Twitterの140文字制限、俳句や短歌といった定型化した文芸は、文字文章のポテンシャルを引き出す力を養ってくれる。

また、無駄を削ぎ落としている分、より厳密に伝わる。口で「死ね」と言われたとき、表情や語気、周辺の文脈や環境によって、そのエネルギーは薄まる要素を多く含んでいる。対して文字は、そういった要素を包含することが難しく、そのまま突き刺さってくる。裏を返せば、ねぎらいの言葉などはより深い感動を呼び起こす。いざというとき、人が思いを手紙に託すのは、こういった文字の性格を本能的に理解しているからだろう。ただし、ITにおける文字情報は、手書きではないから、少ない周辺要素の一つである書体情報がさらに削ぎ落とされている点にも注意が必要だ。まだまだ音声や画像を際限なくやり取りできるネットの帯域がない時代、そのような「逃げ場のなさ」を少しでも和らげようとして登場したのが、絵文字と言えよう。

もう一つ重要なのは、残りやすい、という堅牢性だ。アナログ的に言えば書面は強い、IT的に言えばデータのバイト数が小さいから保存しやすい。事務処理や約束事の記録としては文句なく大活躍するが、言い争いや攻撃の履歴になってしまうと恐ろしい呪文となり、完全に裏目に出る。

ITが広帯域になり、文字以外の要素も一定程度使えるようになってくるにつれ、必ずしも文字への耐性が強くない人も参入した。小中学生のような未成熟なプレイヤーも、大人と同じ土俵でのコミュニケーションをかんたんに行える。大半が年齢などを公言しないままなので、発信も受け取りも危なっかしいものになりやすい。今回の木村さんへの誹謗中傷の中にも、子どもが一定数いることは間違いない。文字も包丁も使い方次第だ。大人が性質をよく認識し、時代に合った教育を考えねばならない。

2020.06

#20

依存対策は、供給側の規制と代替物の提案が鍵だと思う

コロナウイルスに感染し生死をさまよったイギリスのジョンソン首相は、あらゆる介入を批判し自由主義を推し進める従来の考えをすっかり転換させ、7月27日には、「肥満対策計画」なる新政策を公表した。自身の重症化の一因が肥満にあったとの反省もあるという。

この計画では、サイクリングの奨励、特定時間帯のジャンクフードCM放映の禁止、飲食店のカロリー数明示義務などが柱となっている。国民の健康レベルの向上を通じ、国民保健サービス(NHS)の支出を抑制する狙いを明言した。

これはあるべき政策だとする一方で、人々の自由を制限したりあれこれ指図したりと、余計なお世話だと見る人もいるだろう。

政治行政が市民の健康と支出抑制を目的として、介入的アクションを起こし、誘導を図る。その点で僕は香川県で1月に提示され可決された「ネット・ゲーム依存症対策条例」を、このイギリスの「肥満対策計画」と同じ構造のものとして見ている。けれども、誰にどのような義務をどの程度負わせ、どのようなことを推奨するか、何を狙いとするか(を明確にするか)において、後者はよく練られており、学ぶところが多いように思う。

「肥満対策計画」のサイクリング奨励では、専用道路の増設など、インフラの整備とセットにしている。「ネット・ゲーム依存症対策条例」にこれを当てはめると、ネットやゲームより楽しいことを明確に提案し、そのための環境を整備することになろう。#17に書いた続きになるが、外遊びを奨励するならば、たとえば球技OKの公園を増やす、チームスポーツが難しいなら、一人からでもできる外遊びの提案など、代替物に目を向けさせるような前向きな施策が望まれる。スケートボードなどのコースをもっと積極的に作ったりするのもありだ。なにせ人間の脳は、〇〇するなという否定形を正しく解釈できないように作られている。やるなと言われるほどやりたくなるし、考えるなと言われると考えてしまうものなのだ。その脈略で、条例が出てきたとき「禁止」の要素が過度にクローズアップされた感がある。

また、「肥満対策計画」がまともにみえるのは、様々な義務を、原因を供給している食品メーカーや飲食店に課している点だ。各家庭での努力の目安をこれという根拠のない時間数で示してしまった香川県の条例は、それで儲けている方を明確に縛らないくせに、ある意味で被害者の側に鞭打つように映ってしまったと感じる。現代はメディア戦国時代だ。企業はあらゆる方法で視覚聴覚を刺激するコマーシャルを打ってくる。「肥満対策計画」がCMにフォーカスして規制しようとしているのは大いに参考になる。儲からないものは作らなくなる。人々の健康を害して巨利を得る行為を適切に規制することは当然のことだろう。

これらの問題点が絡み合って、無用な、反発を招いてしまった「ネット・ゲーム依存症対策条例」だが、大きな方向性は妥当なので、より具体性を持たせ、改善していくことが待たれる。

数年前に爆発的にヒットした「ポケモンGO」は、多くの人を家の外に引っ張り出したエポックメイキングなプロダクトだったが、ほどなくして下火になり、今になって高齢者を中心に人気が再燃してきていると言う。ゲームを利用した外遊びがゲーム対策になるのかは議論の対象になろうが、今の時代にITや仮想現実を殊更に避ける必要はない。メーカーだって、ユーザーの健康と自分の利益がセットでやってくるなら、そのほうがいいに決まっている。それに環境を整備する行政のコストから考えても、無いものを1から作るより、仮想現実で描画してしまったほうが安上がりなことが多いだろう。

「ポケモンGO」にも見られる要素だが、「ネットやゲームより楽しいこと」を、既存の何かに求めるのではなく、発明してしまうのは十分に有力な手だ。発明と言っても、たいてい世の中の発明というのは、既存のものを少しひねったり組み合わせたら凄いものができた、というのが多い。新たなスポーツ競技はもちろんのこと、「ポケモンGO」のように散歩を育成やバトルと融合させたりといった着想によって、「ネットやゲーム?まあ必要があればするけど、そんなことより外で遊びたい」と多くの人が言うような世の中になることは決して夢物語ではないだろう。

また、ネットやゲームのコンテキストを転換してしまうのもありだ。たとえば、僕は朝起きて意識をシャキっとさせるために、パズル系のゲームはすごく役に立つと感じている。暇つぶしでのめり込むもの、という固定概念を捨て、なにか明確な目的を持って利用するという考え方が広く浸透してくると、自ずとその目的が達成されると同時にゲームも終了する。

あと忘れてはならないのは、それでもハマってしまう人もいるから、視力の低下を招かないディスプレイの開発や、適度な休憩を強制的に取れるシステムの義務化などだろう。

具体的に考えるべきことは、山ほどあるのだ。

2020.08

#21

オタクが成功するには、客観と共生が鍵だと思う

自称「鉄道マニア」のユーチューバーに、スーツ氏という人物がいる。二十代前半の現役大学生。学業の合間を縫って、全国を鉄道で駆け回り、もっぱら目的地ではなくその道程を、淀みないマシンガントークでドキュメントする。

彼の動画をずっと過去にさかのぼって見てみると、最初は、本人のナレーションも顔出しも全くなく、引退列車のラストランなどをただひたすら映像に収める、何の変哲もないものだった。それがある日の動画で、とある九州の駅のプラットホーム上にひょこっと本人が登場して始まる動画を境に、変化する。これは彼いわく、オタクとしての自分自身をマネタイズすることはできないかと考え、戦略的に始めたものであった。それから3年、現在の稼ぎは、総理大臣の年収を少なくとも超えているだろうと語っている。

彼への評判は、鉄道への造詣の深さだけでなく、一塊のオタクがその個性を活かす形で注目に値する経済的ステータスを手にしたサクセスストーリーへの称賛や羨望から来ていることが、コメント欄から読み取れる。

オタクまたはマニアとはそもそも何だろう。僕の私見では、取り立てて論じるようなものではないと世の中の大半の人が無視している事柄になぜか関心が向き、その僅かな違いに好悪など様々な感情を抱いたり、敏感な感覚器ゆえに、対象をまったく異なる概念で捉える性癖である、と定義できるが、いかがだろうか。

その前提で考えると、オタクは特定の分野に大半のエネルギーを費やし、周りには理解不能な脳内世界を築き上げる一方で、それ以外の部分が疎かになりがちだ。ことマネタイズの部分にフォーカスが当たらず、仕事そっちのけで趣味に没頭したり、週末の趣味活動のために平日我慢して労働したりすることになる。そもそもコミュニケーションに難がある場合が多く、マネタイズからは余計に遠のいてしまう。

なればこそ、スーツ氏の成功はオタク界の希望の星として羨望の的になる必然性がある。ただ、後継世代のオタク達は、羨み続けるだけでなく、彼から学び、趣味活動がお金を生む無敵のループに入ることができる。彼がわざわざ自分の生き方などについて多く語るのは、そういう眼目があるからだ。

オタクが成功するためのキーポイントはなんだろうか。僕なりに一言でまとめれば、「非オタクすなわち世間一般といかにうまく共生するかを考え抜く」ことだ。

僕は大学入学ごろの時点で、自分はだいぶオタク気質で、人と比べて友達を作ることが難しく、一般的な遊びでは面白いと感じられないと自覚していた。このまま周りに合わせていても楽しくないし、周りも自分といて楽しくないだろう。きっと社会人になったら、勤務先で少なからずハレーションを生んでしまうだろう、と悲観した。

そんな自分が、まずどのようにすれば周りと上手くやり、自分もストレスを抱えず過ごせるだろう、と悩んだ。オタクが集まる場で過ごすというのはひとつの方法だ。実際スーツ氏は高校時代に運輸科を履修し、濃密な日々を過ごしたと言う。しかし僕はアナウンサーなど別の興味もあり、そこまでは思いきれなかった。共感をベースに置いてもらえない以上、僕が相手にわかりやすい便宜を提供し、感謝をしてもらったり尊敬の念を抱いてもらうしか活路はない、と結論した。

パソコンを弄り倒して幾度も初期化を重ねた子供時代の経験をもとに、パソコンメンテナンスの仕事を思い立ち、それを依頼してもらえるよう自家用車の後ろにフライヤーを貼り付け「起業」するまでに、時間はかからなかった。

もちろん起業してからも、小さな成功失敗はたくさんあった。その中で、オタクが率先してやるべきこと、またやってはいけないことも徐々に言葉にできるようになった。

これはスーツ氏も言っていてそのとおりだと思ったものだが、オタクは、ある程度謙虚さを捨て、自分はその分野について精通しているというキャラを貫くほうがよさそうだ。確かな知見を持っている態度が安心感を与え、友人としての愛着は持てなくても、その分野で役に立つ先生としてのポジショニングを相手の中で確立することができる。

一方で、自分の捉え方を当たり前のように語り同意を求めたりすると、相手はスッと引いてしまう。自分の考えは世の中一般にとっては異常である可能性が高いという客観性を持ち合わせておくことが重要だ。

スーツ氏はあくまで鉄道マニアであって、動画配信は本来あまり好きではないと語る。自分のストロングポイントを基礎に、少しだけ頑張って表現することで、活動をお金に変えている。さしづめ、オタクエキスのおすそ分けと言ったところだ。自分の世界を守りつつ、少しだけ世の中に還元する。もともと強みを伸ばすことに長けているのだから、少しくらいバランスを取ったって壊れることはない。世の中の不遇なオタクが一人でも多く開花し、多様で幅広い味わいを持った世の中になっていくことを願いたい。

2020.10

#22

大統領選の混乱は、海外ネタでは片付けられないと思う

新大統領が実際に就任してもなお火種がくすぶり続けるトランプ対バイデンのアメリカ大統領選は、異常な様相を呈している。

リアリストやリベラル、右や左、といったこれまでの概念では定義できない規格外のリーダーは、反エリートをむき出しにして、既存の権力に襲いかかった。トランプ氏は有権者が理性によって引っ込めてきた本音に「自国中心主義」を訴えかけ、地方の白人男性を中心に極めて強固な支持基盤を確立した。そしてネットを巧みに使い熱狂的なファンの心をつなぎとめた。大統領在任中の支持率が40%台をほぼ終始維持したことからも読み取れる。

彼が敵視した「既存勢力」は、民主党やエリート官僚、というにとどまらず、自分の都合に悪い情報を流すマスコミにも多分に向けられた。Twitterで本人が徹底的に「敵」を攻撃し、それを支持者が援軍となって加速度的にリツイートで拡散していく。もちろんキーワードは「フェイクニュース」だ。彼ら支持層の中では、「マスコミの言うことは嘘っぱちだから信じるな。」という空気が支配する。トランプは自分を批判するあらゆる相手に同じ手法を繰り返した。

トランプ支持層と不支持層の両方のツイートを見ると、同じことに関する「真実」が、常に2つ存在するかのようで、頭が混乱してくる。民主党の重鎮がトランプを「テロを誘発した首謀者」と喝破するニュースの横で、トランプ支持者はその重鎮が「トランプを不正に追いやろうとするならず者で、明日逮捕される算段になっている」などと主張する(もちろん実際は現時点においても逮捕されていない)。冷静になって見ると、もはや支持者はカルト信者の域に入っていると言うしかない。

僕は大統領選当初、トランプが勝つと思っていた。4年前と同じくマスコミの出口調査に応じない「隠れトランプ支持者」は根強いと思われるのと、手段を選ばない彼なら、僅差で負けても今持っている権力を総動員して事実そのものをひっくり返してしまうだろうと思ったからだ。

しかし結果はそうならなかった。ひとつに、アメリカのマスコミはCNNを中心に現職大統領に敵視されながらも屈せず、「フェイクニュース」の罵倒に対して粘り強く対峙した。選挙の結果がある程度決まってからは、もともと親トランプの向きが強かったFOXニュースなども根拠のない陰謀論に与せず、比較的冷静な報道に徹したのは意外だった。

新型コロナウイルスがアメリカで極めて深刻な被害をもたらし、トランプ離れに拍車をかけていたことも大きかった。トランプ支持者が「コロナを恐れるな」とマスクの装着を嫌う傾向があるように、適切に恐れ十分な予防策をとることを拒否した。国内で二大政党のいずれにも強固な支持をすることがない「日和見主義者」の支持を急速に失わしめた。

傍若無人な権力者が現れてパンドラの箱を開け、さまざまな分断を招いたけれど、報道や選挙といった権力監視ひいては民主主義の機能がなんとか作動し、ひとまず状況を打破することはできた、という図だ。

もしこれが日本でのできごとだったら、と考えると、ゾッとするばかりだ。

大手マスコミは記者クラブ制度の中ですっかり骨抜きにされ、政権に忖度する宣伝機関に成り下がっている。末端でその本懐を果たそうともがいても、上層部に潰されてしまう。今や政権を震撼させるようなスクープを突きつけているのはいつも「週刊文春」だけという体たらくだ。

また、それを受け取る一般庶民も、高齢層はマスコミに従順だ。若年層はニュースを見ないから距離を置いて考えられるように見えるけれど、実のところはネットを通じて大手マスコミのニュースが流通しており、同じことだ。基本的に細かいことには無関心なので、ニュースを疑ってかかるという面倒なことに時間を費やさない。

さらに恐ろしいことに、カルト的支持者は日本にも容易に生まれうることがわかった。今回の大統領選で特徴的だったのは、トランプや支持者らの発言を、積極的に日本語に翻訳して拡散する日本人支持者がいつの間にか多数出現したことだ。彼らは決まって国内では「保守」ともてはやされたり「ネトウヨ」と侮蔑される自称右派の人々だ。テレビに多数出演する有名人も多く含まれる。これは共和党が一貫して保守的であるからというより、トランプの反エリートや自国中心の考えと日本の自称右派との相性がぴったりハマるのだろう。

つまり、日本の現状ではまずマスコミが十分に役割を果たせない上に、権力者の横暴を積極的に擁護する人々が潜在的には少なくないのだ。

僕達は左様に常時錯綜する情報空間から「使える」ものを選び取り、考えや行動を決定していかなければならない。社会学者の宮台真司は、「社会がだめになるほど人間が輝く」と言う。良い方向に行く土壌がないならば、個々人の情報リテラシーを上げていくことに尽きてくるのだ。あの国の一連の顛末を自分ごととして教訓にしていこうではないか。

2021.02

#23

音声・動画とテキストは、ハッピーに共存できていないと思う

今年に入ってから、新星SNS「Clubhouse(クラブハウス)」がにわかに盛り上がっている。音声の配信を基軸にしているところが新しく、トークなどを配信する、輪に入る、聞く、という3種類の利用方法があり、特に「聞く」が斬新だ。いわば公開雑談ツールと言ってもいいだろう。話している主がお気に入りの有名人となれば、当然その部屋にはリスナーが殺到する。あらかじめゲストも決めず、いきなり始まるラジオ番組である。放送の電波には乗せられないネタもここなら聞けたりする。新しいエンタメを掘り起こしたと言える。自分の情報を発信したいという様々な層の人々が参入してきている。

一方で、このような面白さゆえ、極端なケースでは寝食を忘れてClubhouseにかじりつくなど、「時間を溶かす」側面を指摘する声が上がっている。また雑誌の対談で、(まだ喧嘩する前の)堀江貴文氏(ホリエモン)とひろゆき氏(2ちゃんねる創始者)は、Clubhouseについて、「情報収集の時間効率が悪い」「文章が読めない系の人にはクラブハウスはピッタリかも」などと批判というか貶している。

彼らのサービス精神というか言葉を鋭利にしてしまうところは差し引くべきだが、音声や動画は、「情報密度が低い」という特徴を持つこと自体は、否定のしようがないところだ。同じ分量の情報を頭にインプットするために、音声や動画、かたやテキスト記事、費やす時間はどれほど違うか比較すれば、テキストのほうが圧倒的に短くて済むという意味である。音声や動画でも、あるていど小見出しごとに頭出しができれば効率もぐんと上がるが、配信側が丁寧にインデックス情報を準備してくれていない限り、ここがネックになってしまうのだ。

「情報密度」は、受け取る側を拘束する時間や労力の大小に関わってくると言える。その他、音声や動画とテキスト、それぞれのコンテンツを配信したり、受け取ったりする場面で、どのような違いがあるだろうか。

制作のコストと完成度を考えてみると、テキストの場合、ライブ配信というものは考えにくく、事前にそれなりの時間をかけて入力する手間があるが、完成度は高くなりやすい。音声や動画だと、録音録画であれば、完成度は担保できるものの、相当の時間を要する。ライブであればその場の流れでやっていけるものの、取り返しがつかないため、完成度はどうしても低下する。

論理的な情報を超えた部分のニュアンスが伝わる度合い考えると、動画の圧勝で、音声はそれに準ずるだろう。テキストでそれができる人は、文才と呼ばれる人達である。感情や気迫といったものは、音声情報の特権的なポテンシャルだ。また、色や柄、サイズ感など、画像を持ってしか伝えきれないものもたくさんある。

このような様々な良し悪しがあるにもかかわらず、僕が少々ネット界の動きを懸念しているのは、「これからは動画の時代」とばかり、コンテンツ制作のトレンドが音声や画像、動画ものに偏っている風潮が見られることだ。メディアがリッチになることと、訴求力が高くなること、またインプットの効率が良くなることは、まったく別のこととして考えなければならない。それがゴチャ混ぜになっているきらいがある。

5Gネットワークの普及など、配信できる素地が広がってきている。また、YouTuberの出現に象徴されるように、動画コンテンツの収益化がより一般的になり、「お金になることが一番理にかなっているに決まっている」という先入観を持たせる部分もあるだろう。あと、そもそもテレビ文化が続いてきた中で、人々の読解力が低下し、精緻さや正確さよりわかりやすさを過剰に求める時代性を生み出している部分も否めない。

僕の生活の中では、情報収集は基本的にテキスト情報である。音声や動画に触れるシチュエーションは、意識的に限定している。ひとつは、運転中。眼と手足が奪われているが、耳が空いている。もったいないので、そこの有効活用として、Youtubeなどを流しっぱなしにしている。比較的頭を使わない単純な作業のときも、傍らで流しておくこともある。これも運転中と同様のアプローチだ。ともかく、自分の活動の中心に音声や動画が出てくることがないということだ。時間活用がタイトな人の多くが、同様の傾向を持っているのではないだろうか。

コロナの問題が勃発した昨年度の僕の大学講義は、Youtubeでの録画配信にした。対面が無理である以上、お金をいただいている教材としての完成度はある程度担保しないといけない。また、知りたいことを受講生の側から調べてもらうのではなく、こちらからお品書きを提案していき、一緒に操作してもらうタイプの授業だ。それらを勘案し選択したが、制作の大変さは想定外だった。われながらよくやったと思う。

どう伝えたいかだけでなく、受け取る側がどのような場面でどのように利用しているのか、また配信のコストパフォーマンスもよく見極めて、メディアの種類を選択していくことが重要だ。

2021.04

#24

真の生産性とは、その人の望む時間の使い方ができるかどうかだと思う

昨今のコロナ禍で、IT業界は概ね活況を呈している。うちも例外ではない。国や地方自治体からの補助金が僕の顧客先に降りてきて、そのお金が僕の仕事につながる。そうして、特に昨年の秋頃からは、ありがたいことに、暇だなと思うことがまったくない日々をこなしている。

3歳の子を持つ身で、一日の時間を殆ど仕事に使うことができた以前の暮らしは一変し、案件が急増する前から時間のやりくりには苦心していた。その上に、コロナ初期の子供の自主休園がきたから、一体いつ仕事をせよというのかと、途方に暮れたものだ。

しかし、なるべく面白い仕事は断りたくない。納期を破るわけにもいかない。だからと言って、育児や妻との時間も犠牲にしたくない。そんな中で、これはいつまでに納める、今日は何をしなければならない、ということを確実に把握するために、自分用の日報を書く習慣が生まれた。ちなみに行き着いた方式は手書きだ。始めた頃は、書く時間自体が勿体ないようにも感じていたが、徐々にすぐ元は取れるものだと、日々の結果を見て確信した。また、通話の類を、運転中ハンズフリーでやるようになった。移動中、耳と口は空いている。前回に書いたYoutubeの耳だけ視聴とともに、車の中の時間がとても密度の濃いものに変わった。

ただ、子供が寝た後の時間を仕事に振り向け、寝るのは毎日午前3時頃。起きるのは子供と一緒だ。このように睡眠時間を削るようになってしまったのは、安直な判断だった。徐々に日々のパフォーマンスが悪化し、日中常にぼーっとしている感覚がつきまとった。これはまずいとなり、朝方への転換を決めた。夜は子供と寝て、朝6時頃までには置き、子供が起きて通園の準備をするまで、とにかく集中して作業をこなす。やはり夜より朝のほうが頭が働くのはほんとうだった。夜のだらだらの3時間と、朝の1時間で、出来高はそんなに変わらなかったのだ。

それと、日中少しでも時間を作るべく、細かいことにも注意を向けるようになった。メールやLINE等の返信が超シンプルになった。礼儀等が必要ないものでは「はい」とか絵文字で済ます。この人は忙しい人だと思ってもらうと、相手も手短にしてくれたりする。

ある程度「時間をお金で買う」こともより躊躇わなくなった。たとえば、料金に関わらず目的地に一番近い駐車場を使う、近距離でも比較して早ければ高速道路を通る、といったことだ。また、日々繰り返し行うパソコン作業は、極力プログラムにして自動化する。そのために有料のアプリが必要であれば、悩まず買う。道具も同様だ。無駄になってしまうものもあるが、一定期間試さないとわからない。目先の出費を気にし過ぎて、時間が奪われ続けるのでは元も子もない。とにかく何かにつけて、少々お金がかかっても、時間がかからない方を選択するということだ。

パソコンを継続的にレクチャーする案件では、宿題をやってきてくれない人に、時間や労力を極力費やさないようにしようと決めた。一見冷淡に見えるかもしれないが、何も進んでいないのに漫然と時間を取って、同じ段階をぐるぐる回っていても、僕はお金をたくさんもらえるかもしれないが、その人は何も向上していない。あくまでレクチャーの主目的は、その人のスキルアップであって、僕の金銭的利益ではないのだ。その時間、もっと喫緊の仕事に使いたい。基本、宿題ができたら連絡して下さい、次の日程を決めましょうと言うようになった。考えてみれば、これもある意味、たちまち得られるかもしれない金銭でもってしてその時間を買っている側面がある。

このようにして、仕事、家庭、睡眠と、欲張りに死守すべく、時間をすべての優先事項にする。しかし逆に言えば、それで作った時間を、自分が楽しいと思うことには惜しみなく使うのだ。子どもが通園しない土曜日は、早朝はこっそり仕事をするが、子供が起きてからはだらだらご飯を食べて、昼は子供が練習で漕ぐ自転車を押し3時間かけて近所をまわるなど、のんびり過ごす。たまにスマホは見るが、ほぼ仕事の電話は出ないし、返信もしない。平日の定休日である水曜は、ジムや温泉、ちょっと贅沢なランチ、ゲーム、またこのコラムの執筆のように普段なかなか時間が取れないことをして、無口に(笑)過ごす。

よく仕事の出来高や社会への貢献度を指して能率、効率、生産性などの言葉が多用されるが、僕が考える生産性とは、それがどんなに周りから見てくだらないことであっても、自分がやりたいことをたくさんできるかどうか、ということだ。昨年、テレワークでちゃんとパソコンの前に座っているかを見張るシステムが開発されたニュースを見てひっくりかえったものだが、ITがそのような偏狭な使われ方をすることをとても残念に思う。その人がその人らしくそこに存在するために、どんな方法があるだろう。抽象的に言えば、僕は自分の仕事のなかでこれだけを考えている。

2021.04

#25

マウスは、お化け入力デバイスだと思う

キーボードによって「入力」された文章が画面に表示されたり紙に印刷されたりして「出力」される。アプリのアイコンをタップするという「入力」に応じて、起動し「出力」される。パソコンは突き詰めて言えば、入力と出力で構成される関数的存在だ。操作環境をより良くしようとするとき、やはり入力と出力のデバイスが鍵になってくる。

今回は入力デバイスに絞って考えてみたい。黎明期のパソコンにおける入力とは、もっぱら黒背景に白字の画面にコマンドを入力するものであった。文字入力のデバイスは、スマホの登場までキーボードの独壇場だった。もっとも、スマホでも画面上にキーボードを模したものが表示されるので、広義に言えばキーボードである。

時代が進み、徐々にグラフィカルな操作画面が形作られ、デスクトップ、アイコン、ウィンドウといった要素が確立する。それまでのコマンド入力では、画面上の現在位置といえば何行目のどこにカーソルがあるというだけのものだったのが、座標で表されるようになったので、ある点を素早く指し示すものが必要になってくる。これに欠かせないのがマウスであった。アメリカの発明家であるダグラス・エンゲルバートによって生み出され、のちにAppleのスティーブ・ジョブズが「Apple Lisa 1」に搭載したことを皮切りに、普及していった。当時は画面上に矢印が動くこと自体が革命であった。

マウスには一定の可動スペースが必要で、少し場所を取る。その問題を解決すべく、ノートPCではキーボードの手前に指を滑らせる「トラックパッド」が搭載されるようになる。また、かつてのマウスは底面のボールを転がすものであったが、そのボールの方を手で転がす「トラックボール」というものもあり、一定の根強い支持が今でもある。

画面を指やペンで直接ポインティングするタッチパネルは、古くはシャープ製の電子手帳ザウルスの時代からあるにはあったが、マウスと比肩するまでになるには、iPhoneの登場まで30年を要した。技術的にはハイスペックだが、表示されている画面をじかに指し示す直感性はアナログに近く、従来のパソコンに慣れていない高齢者も比較的すんなりと操作方法を体得できる。

このように、ポインティングデバイスはバリエーションを増やしてきた。しかし、どれも最古参のマウスに取って代わることができていない。紙などに感覚が近いタッチパネルが、なぜマウスを駆逐できないのだろうか。これには、いくつかの要因がある。

指で操作するものとして考えたとき、タッチパネルはどうしてもポインティングの精度が下がる。太さのある指を使って画面を指し示そうとすると、画面に触れた範囲は点ではなく面になる。しかも、その触れた部分が隠れてしまう。この影響が案外大きいのだ。スマホの画面キーボードでタイプミスが多いのは、単に画面が小さいからというだけではなく、そういった原理的な弱点によるものが大きい。デザインなど細かな作業のときに、タッチパネルだけでこれをやるのはかなりストレスフルだ。スマホやタブレットとPCが併存し続ける理由のひとつがここにある。

指の太さの問題を解決するのがペンなのだが、その形状ゆえ、紛失が多発する。コンパクトすぎるのも問題なのだ。また、マウスと比して手の細かい震えがそのまま反映されてしまい、案外ある点を安定して指し示すのが難しい。ボタンをクリックしたりする操作では、この震えがストレスの原因になってしまう。画面ではない板にペンでポインティングするペンタブレットではこれが顕著だった。

そしてまた、タッチパネルの場合は入力と出力を兼ねているので、当然同じ位置にある。それに対して、人間の体は、出力を受け取る目と入力をする手が離れている。スマホやタブレット程度のサイズであれば問題ないが、画面が大きくなるにつれて、手をたくさん動かす必要が出てきて、タッチパネルがしんどくなってくる。かと言って画面を前方に置くと、今度は操作するために浮かせている手が重力に逆らい続けることになり、疲労の原因となる。

つまり、ハイスペック、ハードワーク、精密な作業になればなるほど、新しいテクノロジーであるタッチパネルが役に立たず、最古参のマウスが幅を利かせることになるのだ。これは、物事の進化の原理に反しているようで、とても興味深い。精度、手の運動量、指の効率的な利用において、まだマウスを超えるものが出てきていないということだ。マウスがいかにお化けデバイスであるかがわかる。

そんな中で僕がマウスに取って代わる可能性を感じているのが、ALSなどの難病の方向けに普及し始めた「アイトラッキング」。つまり目線でポインタ移動や選択などの操作ができる技術だ。これが安定して精度も確保すれば、手はほとんど常にキーボードに置いていれば良いので、かなり楽になる。これはPCだけでなく、スマホやタブレットに搭載されれば、手の負担軽減にも役立つはずだ。

2021.08

#26

モニターの進化は、紙の性能に近づく挑戦だと思う

前回は入力デバイスについて書いたので、今回は出力デバイスだ。パソコンにおける出力とは、視覚、聴覚、触覚の3つで構成されていると言って間違いない。視覚といえば、画面に映す、あるいは印刷するということになる。聴覚はスピーカーからのサウンド再生、触覚はスマホの振動が主たるところだ。

勃興期におけるPCには、モニター(ディスプレイ)がなく、キーボードとプリンターの構成だった。数式を入力すると、答えがプリントアウトされる、といった具合だ。これを知る人と知らない人、それこそジェネレーションギャップである。ただし昭和57年生まれの僕からしても、モニターのない構成は昔話として知るものであった。

そこからモニターが出現し、出力は入力に対してより即時的になった。印刷はオプションとなり、紙に残しておきたい、きれいに見たいときに行うものとなっていった。モニターはまだまだ当時品質が良くなく、紙に印刷された状態をそっくりそのままモニターに映し出すほどの性能を全く持ち合わせていなかったという背景がある。

初期のモニターは9インチ程度で、現在のiPadのミドルクラスのものと同じである。ただiPadよりずっと奥行きがあり、とても重いブラウン管(CRT)の機器であった。そして、表示はモノクロ。当時からテレビはすでにカラーの時代になっていた。パソコンのモニターがカラーでなかったのは、前回のキーボードの話でも書いたが、当初は専らコマンドライン環境だったことが大きい。

グラフィックな操作環境の開発とともに、モニターもカラー化し、そして徐々に大型化が図られた。僕の記憶では、1995年に初めて買ってもらったPCのモニターが15インチ。ハイエンドモデルが17インチだったが、10万円ほど高価だったはずだ。今となってみれば、当時がCRTモニターの末期だった。そこから急速に薄く軽量な液晶モニターへと置き換わっていくことになった。それにより大型化には拍車がかかり、いまでは50インチ程度のモニターなら現実的に価格で購入できるようになった。

ところで、モニターの性能において、解像度は重要な要素だ。モニターは発光する点の集合で構成されている。点(ドット)が縦横にそれぞれ何個そのモニターに収まっているかが、平たく言えば解像度だ。前述の大型化にともなって、もし解像度が上がっていかなければ、当然1個1個の点は大きくなる。これではあらゆる文字や図形は滑らかさを失い、カクカクになっていく。解像度もぐんぐん上がっていき、どのようなサイズのモニターでも、点の大きさがあまり大きくなりすぎないように性能アップが図られた。

この流れは、2010年にAppleが発表した「iPhone 4」によって大きな転換点を迎えた。この端末ではこれまでと比べ縦横それぞれ2倍、つまり4倍程度の数の点を収めた「レティナディスプレイ」を搭載した。「レティナ」とは網膜。人間の網膜では識別できない点の小ささを謳った。つまり画面サイズあたりのドット数が増加し、「高画素密度」になったのだ。とくにスマホのような近接した距離で見る画面において、なめらかな文字表示は、目の疲労を相当に改善させ、よくも悪くも世界の人々のスマホ時間をどんどん長引かせた。

このあたりから、タッチパネルを搭載するPCでも、同様に目と画面の距離が近接することから、高密度化が図られてきている。「4K」「5K」ディスプレイがこれにあたる。これに慣れてしまうと、従来の密度のモニターでは、文字が読めたものではないという気になってくる。

僕はそもそもフォントオタクからPCへの興味が始まっているので、紙に印刷しなければフォントを忠実に再現できないPC環境には、子供の頃から漠然とした不満を持っていた。MacOSでは、密度の低いモニターであってもなるべく見栄えの良い文字表示を実現する努力がされていたが、Windowsではついに現在に至るまで低密度モニターでの文字表示は改善されていないに等しい。例えば少なくとも、低密度モニターのWindowsで電子書籍を読む気には全くならない。2010年頃にMacに全面的に乗り換えた理由の第一がこれだった。だが、モニターの高密度化によって、この問題もある程度解消してきたと言える。

このように見ると、モニターの理想とは、文字や図形がなめらかで、目の疲れにくく、必要に応じて大きさを選べて、さりとて場所取りすぎない、ということだ。それはすなわち、「モニターの性能アップのゴールポストは紙である」と言える。面白いことに、最初期の出力先であった紙を、モニターは未だに目指し続けている。その意味では、Kindle Paperwhite に代表される電子書籍専用デバイスは、紙の長所を極限まで再現するひとつの決定版である。しかし一方で、各種作業に適した輝度は犠牲にしている。逆にVRメガネなどのウェアラブルデバイスは、長時間使用していると頭が痛くなり、実用に耐えられない。上述の要素をそつなく満たしていく取り組みが続いていくことになる。

2021.10

#27

マニュアルは、ITでも教育でも人生でも機能しなくなっていくと思う

僕の幼少期に読んでいた本といえば、電話帳、漢和辞典、そして取扱説明書だった。絵本などの物語は「読んで何になるのか」といった感情を持っていた。なぜか目先の実用性ばかりが価値だと思っていた。幼稚園で周りの子らと話が合わないだろうということは、容易に想像できよう。いまでも時刻表が好きだというのだから、大して変わっていない。

家じゅうの電気製品、調理道具から、親の自動車に至るまで、ありとあらゆる説明書を読破した。親も知らないボタンの意味、便利機能を自分が知っている、といったことにある種の快楽を覚えていたのだろう。また、部品の名前や独特な機能名、謎の長大な表など、説明書以外では全く出てこないような難解な要素が、自分を惹きつけた。

パソコンにおいても、勃興期は他の家電製品と同様、マニュアルがどっさりとついてきた。初めて購入したパソコンのアプリは「一太郎6.3」だが、その箱の厚みは20cmほど。CD-ROM以外の空間には、100ページ超のマニュアルが詰まっていたのだ。

ところが、Windows 95 が登場したころから、急速に冊子のマニュアルは減り、画面上で呼び出して参照する「ヘルプ」の形式へと変貌した。ウィンドウシステムが確立し、1画面の中でマニュアルと作業画面を並べたり、交互に切り替える環境が整ったこと、ストレージの容量に余裕が出てきたこと、コストの削減など、いろいろな要因はあるが、一番の理由は、パソコンやアプリが冊子での説明には到底収まらない巨大な「世界」ともいえるようなものになっていったことだ。

また、バージョンアップによって、操作方法などは生き物のように進化していく。これに最適化するように、インターネット回線が広く普及して以後は、ブラウザからオンラインマニュアルを見るよう誘導する製品も増えた。

この流れは、一応今に至るまで続いている。しかし、実質的にはほとんど役に立たなくなってしまった。というか、そもそも冊子のマニュアルが消え始めたころから、ずっと役に立っていないかもしれない。

装置を作った人が当然マニュアルも作る性質上、彼らの想定の外にあることは書けない。だが、どんどん増加していくユーザーは多種多様になり、メーカーの予想だにしないものをそのアプリで作成したり、奇想天外な使い方をするようになった。エラーメッセージだって、各ユーザーのパソコン環境によって出てくるものもタイミングも異なる。つまり、作ったものを遂に説明できなくなってしまったのだ。

今ユーザーは、まずパソコンに直感で向き合う。これだけで目的が達成できたら、それは優れた製品だと言えよう。困ったときは、達者な人に聞くか、ネットで調べる。ネットといっても、メーカーが書いた情報ではない。ほかのユーザーが書き残した、「こんなとき、こうやったら、こうなった」という「ナレッジ」だ。前述の達者な人も、結局ネットで調べたものを根拠にしていることがほとんどである。マニュアルのWikipedia化と言っていいだろう。

根気と暗記力は役に立たなくなり、なんら手がかりのない砂漠のような場所で、自分の目的に応じて必要な情報に素早くたどり着く「検索力」か、もしくはとことん友人に助けてもらう「人たらし力」が、ITスキルを身に着けるための重要な力として取って代わった。

そろそろお気づきの方もいるだろうが、ITがそうであるということは、人間社会も少なからずそのように変化していることを意味する。多くの人が生存の危機に日々怯えることがなくなり、街にはさまざまなサービスやインフラが溢れている。情報も流れ放題だ。自分がそのどれを選択し、どのように利用すべきか。災害時の対応など目的のはっきりしたものに対するマニュアルはあるが、日常生活におけるそんなものかあるはずもない。

インターネットによって、「知」はそれぞれの人間が独立して保持するのではなく、より多くを広く共有するものになった。独力でテスト問題を解かせて点数を見ても、あまりその後の人生を切り開く力としての意味はないのだ。教科書をなぞりながら板書をさせ、順番に覚えさせていく一辺倒の学校教育。これが本気で変わっていかなければ、この国は没落から免れない。

働く現場では「マニュアル対応」という言葉がしばしば使われる。しかしそのような仕事の多くは、ロボットの台頭とともに人間のやることではなくなっていく。オリジナリティを持って創造したり問題解決をするところに、人間の活路は集約されるだろう。

さらに、仕事がないことが危険でも悪でもない時代になったとき、一体全体日々の生活の目的をどこに定めればいいのか、という問いに答えを出していかなくてはならない。教科書、マニュアル、ハウツー本、バイブルといったもので楽をすることはできないのだ。

サボらずたくさん考え、自分だけの楽しさ、幸せを探し、たどり着こう。でなければ、「考える葦」として人間に生まれてきた甲斐がないではないか。

2021.12

#28

子育ては、AIプログラミングそのものだと思う

Googleで「子育て プログラミング」と検索をしても、「子育てママのためのプログラミング」とか、「子供にプログラミング的思考を持たせる」といったページはリストアップされるが、表題のようなコンテンツは1つも目にすることができなかった。

2017年に子どもが生まれ、 まさに毎日が新体験だ。まず生まれたての赤ちゃんは、泣くことしか知らない。これ一つとっても、人の子供に少し接して知っていたのと、日々ずっと一緒にいるわが子を観察して得心するのとは、全く違う。いきなり母体から外界に放り出され生命の危険と戦う赤ちゃんは、常に怯えることだけを初期値としてプログラムされた状態だ。笑うことを知らない。まさに未完成のAIと同じだと直感した。

「笑うことを知らない」をもう少し分解して考えてみると、まず「笑い方そのもの」を知らない、「面白いときに笑う」ことを知らない、そして、「何が面白いのか」を知らない。この3つの無知があるのではないかと考えた。 だから、早いうちから順番に伝えて、子どもをアップデートさせていくことにした。

まずやった事は、子どもの正面でひたすら笑うことだ。 日本語は通じないし、泣いているとき以外は真顔なので何を考えているのかわからない。赤ちゃんは文脈理解ではなくてとにかく真似ることから始める。加えて、AIと違い、記憶を定着させるためにはかなりの反復が必要だ。とにかく挨拶をするつもりで気持ち悪いくらい同じように笑い続けた。

そして、僕自身が面白いと思ったとき、つとめて大げさに振る舞うように心がけた。いちいち子どもの目を正視して、大笑いした。子どもは、なぜ面白いのかはわからないが、これが面白いらしいと考える。

このようにしたことで、かなり早い段階から笑顔作ろうと顔をくしゃくしゃにするようになったように思う。8ヶ月ごろ歯医者さんに行ったとき、「お子さんめちゃめちゃ笑いますね」と驚かれたことを覚えている。

この時期の子供は、まだ言葉は話せないが、感受性は格段に進化してくる。 周囲の生活音、大人同士のおしゃべり、出しているつもりのないこちらの感情など、本題以外の情報を鋭敏に受け取っている。小手先で取り繕っても見破られることが増えてくる。 嵐のような子育ての毎日で疲労困憊の中にあっても、こちらの情緒が安定していることはかなり重要だ。離乳食のテンポ、お風呂での数数え、 子守唄など、なるべくムラッ気なく毎日同じようにやることを心がけた。ただ、どうしても我慢できず声を荒げてしまったりすることはある。ふと気がつくと、憤慨の仕方がそっくりだとか、日を追うごとにマジかとなる場面が増えるが、すべて自分で蒔いた種だ。そういうときは、後悔していることを全力で伝え、その良くない行為は決して反復しないと心に誓うしかない。取り返しが付く範囲でベストを尽くし良質な情報でアップデートしてもらうのだ。

歩き方から始まり、お箸の使い方、言葉や文字など、覚える内容もどんどんレベルアップしてくる。ここで、プログラミング的に言えば再生ボタン、つまり「テスト実行」を増やしていく。例えば数字だと、一ヶ月程度、毎日10まで一緒にゆっくりはっきり数える。最後の「10」をこちらが言うタイミングをワンテンポ遅らせて、本人自身に思い出して言わせてみる。言えなくてもいいので、ほんの1秒とかでいい。自分で言えたときはその都度感動のフィナーレみたいに騒ぐ。言うまでもないが、これをだんだん9、8、と繰り上げていく。遅らせる時間も広げる。3ヶ月もすれば、自分で数えるし、かわりばんこに数え合ったりもできて、自由自在だ。

お風呂には、百円ショップで買ってきたひらがなやアルファベットのシートも貼っておく。アップデートすることそのものを知った子どもは、さきほどの数字ほど丁寧にやらなくても、だんだん自動化してくる。「これなに?」と聞かれている間は、ただ答える。りんごの絵を聞かれ、日本語も英語も中国語も伝えたりする。自分が知らなくても、いまはスマホで調べられる。自身のアップデートも少し兼ねると、楽しみをリアルに共有できる。このように答えは増し増しで問題ない。ある程度の負荷に慣れておいてほしいのもあるし、一旦情報を入れて忘れるのと、初めから入れてないのとではぜんぜん違うからだ。

接し方は完全に子どもに対するそれだが、しかし機序は他でもなくプログラマーであり、また真剣な語学教師だ。相手は知らないだけで、叱ったり見下したり面白がる相手ではない。ある意味で対等に、淡々と繰り返し伝える。どうしてもうまく発音できないときは、舌の使い方含め、変顔で笑わせながらテコ入れをする。プログラミングも、みんなが思っているほどすんなり動かない。いろんなアプローチから繰り返し攻めてみて、やっと思い通りの挙動をしてくれる。何も違わないのだ。

字数が来たので、デバッグなどの要素も次の機会に考えてみたい。

2022.02

#29

デバッグは、子育てでも大事だと思う

パソコンのシステムやアプリの開発において、プログラムを組んでみたら、いきなり思い通り動いた、ということがもしあったならば、とてつもない奇跡だ。何度か修正を加えて、やっとまともになってくる。だがここで安心するのは早い。その挙動はあくまで組んでいる自分が入力をしたら、期待した出力が返ってきた、というだけだ。他の人が違った端末で入力をすると、新たな不具合が見つかったりすることがほとんどだ。これを繰り返して、ようやく完成の域に達する。

不具合を取り除いていく「デバッグ」作業でまず大事なのは、それは当然に必要な作業だと認識し、初期版のプログラムの挙動に過度な期待を持たないことだ。不具合があることにイライラしていては、冷静に直すことができない。そこに感情は不要だ。ただただ原因究明と対策のみがそこにはある。また、いろいろな人、端末で試行して、いわば「ストレステスト」をするわけだが、これは追求し始めるとキリがないことにすぐ気づく。人も端末も無限に存在するからだ。実際のデバッグでは、どこまでやるかについて、予め妥当なゴール地点を決めておいて、そこまでたどり着いたら良しとする、という見切りが重要だ。

子どもは、こちらがきちんと教えたつもりでも全然覚えてなかったり、言う通りやったけれど失敗を繰り返したりする。親がやっていることは、ずっと続くデバッグ作業のようなものだ。(これは重要で、肯定することと間違い指摘しないことはぜんぜん違う。)その際の親の気の持ち方は、伝えた情報以上にその後の変化に影響を与えるように感じる。

「こんなこともできないの」「なぜ言ったとおりやれないの」と苛立つのは、親も人間なので仕方のないところがあるが、そんなときは一度落ち着いて、前号で書いたように子育てをプログラミングと捉えてみたい。その責任はコードを入力したこちら側にしかないのだ。正確に伝わっているのに反抗する場合は、情報以上にこちらの向き合い方に問題があるとしか言いようがない。言うことを聞きたくないと思われたら、どうしたってうまくいかないからだ。本題の前にそれを解決しなければならない。

僕は、文字や言葉の使い方の間違いを指摘するとき、そこに何の感情も入れず、「それは〇〇ね」と真顔で言うように気をつけている。そこに苛立ちとか叱りが入ると、その記憶の作業自体を切り上げてしまって、意味がない。また、あまり面白そうにやると、失敗を笑われているように捉えて、これまた否定された気持ちになるらしいとわかったからだ。なんでも楽しければいいというものでもないのがおもしろい。また、正しくできるようになったときも、一度は「それでいい」「すごいね」くらいは言うが、同じことについて何度も褒めたりしすぎないようにしている。

目的はあくまで本人が正しい知識を持ったことに対して自信を持ってもらうことだ。パパのおかげではなく、自ら会得したものだと解釈してもらって、もっと覚えたい、繰り返したいという欲求を維持してくれることが望ましい。これを失敗すると、自分で調べたりする前に、親に何でも聞いて過度に依存してくる。徐々にさりげなくその場からフェードアウトするくらいでよいと思っている。

これは、少し話を広げると、「子どもの内発性を妨げない」ことにもつながってくる。というのも、子どもは最初、それがやりたくてやっているのだが、いつしか「親に褒めてもらいたい」という報酬の欲しさ(外発性)によって行動するようになってしまうことがあるのだ。それが極まると、ある程度の年齢になったとき、際限のない「自分探しの旅」なるものが始まってしまうだろう。

「ストレステスト」という面では、子どもはいろいろな場所、さまざまな相手の前で同じ間違いをする。そのとき、あるときは見逃してあるときは指摘するというのも、極力避けたい。何度でも同じ調子で、感情を入れずに指摘してあげる。そうしていれば、5度や6度目くらいでさすがに思い出して直るものだ。ある程度直れば、書き順など細かいところは自発的な学習に任せて、完璧は目指さないほうが良い。

子どもは、いつまでも教わる側でいるわけではない。こども園ではすぐ下級生ができ、事あるごとにお兄さんとしてあれこれ教える立場になる。前述のような親の態度は、このときに見事に再現されることに気づいて、少々ドキドキしたが、幸い「とても教え方が上手ですね」と先生に言われて、ほっとした。

ところで、この先だんだんとやりたいことも自ら選択して、親は見守るだけになっていく。そのとき、余程でない限り、「これはいい」「これはだめ」と絶対的な尺度で言うことから、「あなたがやりたいならいい」「なんでやりたくないのにやるの」と、子どもの気持ちとの相対的な距離によって物事の良し悪しを論じるフェーズへと変えていくことが大事だろう。それが自立への助けになるはずだ。

2022.04

#30

パソコンの悪用防止策は、過去の発明物との比較で見いだせると思う

息子がどっぷりハマって聞いているAdoの曲「マザーランド」に、「楽園だろう そこは楽園だろう / 歌い踊る 液晶の檻の中 / ああいつまでいれるの?」という一節がある。彼女が歌う曲には、このようにパソコンを現実と対置したものがたくさん出てくる。曲まるごと二次元恋愛をテーマとした「16ビットガール」を歌ってみた動画も公開されていて、多数の視聴数を稼いでいる。いずれも、情報世界への閉じこもり、人間同士のコミュニケーションの放棄を指している。

なるほど確かに、パソコンとりわけスマホは「現代社会最大のドラッグ」と言われて久しい。情報流通のありようをすっかり変えてしまい、文明生活のさまざまな場面に入り込んでいる。その点で、モンスター的な取り扱いをされるのは仕方ないし、なればこそ、僕がこのようにパソコンそのものをテーマとした連載を続けてもネタが尽きないのだろう。

この連載の初回のタイトルは「人間とパソコンの素敵な関係ってのはあると思う」だった。さきほどの一節のような閉じこもりが、素敵な関係でないことは言うまでもなかろう。パソコンなどのITの「悪用」を防ぎ、これらと人間がうまく付き合っていくために、我々がどのような考え方を持つべきか。今回は、これまでに発明されたパソコン以外のエポックメイキングなツールが、当初どのように扱われ、どのように変化し、現在いかに共存しているかを考察してみたい。

自動車や飛行機は、いつも真っ先に思い浮かぶ。これによって人間が移動できる距離も速度も画期的に変化した。そもそもパソコンも、移動手段の発達なくしては生まれなかっただろう。しかし、自動車や飛行機は、これらがなかった時代には存在しなかった激烈な被害を生じさせる。事故である。当事者にとってはたまったものではない悲しみをもたらす。このリスクを、人間社会はどのように低減しているか。

ひとつには、免許性を採用し、未成年者の操作を一切禁じている。これにより、著しく想定外の事態がなるだけ起きないようにしているのと、事故発生時に一定の責任を負える仕組みにしている。こと飛行機は多くの教習が課され、免許もずっと厳しい。このようにしてリスクの大きさとのバランスを取っていると言えよう。その上でも生じ続けるリスクについては、生産性とのトレードオフとして、なんとか許容している。

突然ベーシックなものを取り扱うが、包丁もまた、古くは打製石器から進化した発明物であり、人間の営みを大きく変えた。ほぼあらゆる家庭に存在し、頻繁に使われているが、何でも切れてしまうため、使い方を誤ると悲惨なことになる。ただ、ほんとうに悲惨なことになるが故に、物心がついてからの人間は、これを悪用するためにそれ相応の決意をし、それ相応の力を使わなければならない。車のアクセルを踏むよりずっと難しい。

さて、パソコンはと考えてみると、まず包丁や自動車よりは悪用時の被害が軽度で緩慢であることがほとんどだろう。突然命が取られるといったことはなかなか考えにくく、被害が物理的には見えにくい。パソコンの悪用を防ぐために、リスクをハードにして包丁のように鋭利な道具にしますかと言われれば、これは本末転倒というほかないけれども、たとえばパソコンによる健康面のダメージをよりわかりやすく数値化するような試みは考えられなくもない。「瞬間視力センサー」なるものが搭載され、「焦点をあわせる力が低下しています。休憩してください」といったアラートが表示されるのはどうか。現在でも、Apple Watchを装着していれば、「そろそろスタンド時間です」と、座りっぱなしで作業していることを検知してたしなめてくれる機能はある。これが車にあってもいいのにとも思った。

飛行機との比較で言えば、パソコンはより手近で操作の敷居が低い。かと言って、パソコンを免許制にしたり、未成年の操作を禁じてしまうと、パーソナルな部分のメリットが吹っ飛んでしまう。むしろ、成人になって初めて習得する上達速度的なリスクのほうが大きいかもしれない。ただ、部分的に制限する考え方は、「ファミリーセーフティー」「ペアレンタルコントロール」機能の呼称で、わりと一般的に採用されている。これらによって、未成年者のいろいろな意味での「やりすぎ」は一定程度予防できるが、自らロックを解除してしまう大人には無力だ。

あまり好きな言い方ではないが、ここであえてパソコンを「ドラッグ」と捉えてみれば、これによる被害の責任は「製造物責任」にも属すると言っても、そんなに突飛ではないだろう。そのような意味では、予めリミッターを搭載した端末を作る義務をメーカーに課すように法的制度的な手当は十分現実的であると思う。ただし、これは権力による統制に悪用されるリスクを持っているため、熟議が必要ではある。

さて字数が来てしまったので、個人の次元でどう考えるべきかは次号で考察してみたいと思う。

2022.08

#31

新しい文武両道」が、パソコンを昇華させるエンジンだと思う

前回は、パソコンがより健全に人間と共存していくために、パソコンがどのように進化したり適切に制限されたりすべきか、昔発明され現在まで生き延びている主要なツールと対比して考えた。では、我々ユーザーは、どのような心構えや距離感でITを捉えるべきか。

ここでひとつおさらいしておきたい。僕がパソコンの「悪用」と表現したのは、人間の必要な能力を退化させたり、自分や他者を傷つけたりするように作用することを期待して人がパソコンを使うことを指してだ。こうならない方策を検討している。

古くから、学問と武道を両立する「文武両道」という言葉がある。より抽象的にすれば、脳内を主とする活動と、フィジカルな感覚の両方を兼ね備える、またそれがあるべきことだという教訓とも言える。両者のいずれも他方を優越しないし、また一方が他方を減殺させず、相乗効果を発揮するものと考える。どちらが欠けてもダメだ。

この「文」と「武」を、デジタルとアナログに置き換えてみると、どうか。

たとえばネット空間上のゲームのみに居場所を見出し、自室から出てこられなくなることは、まさにこの「新しい文武両道」に真っ向から逆行することになろう。ここまで行かなくても、直接会ったり電話した方がよいことがらをメールやインスタントメッセージなど活字のやりとりで済ませたりする行為は、生活の中でよくあることだ。

しかし、予測変換で出てきた文字列や、ツールが用意したスタンプで交わされる内容に、声色など否応なく出てくる個体差のようなものはない。だから誰がその内容を入力してもよく、その主体は無色透明、代替可能なのだ。眼前の些細な面倒臭さを回避するために、このようにして人間同士のつながりをどんどん希薄化させている。そうなったら、次は他者にも代替可能性を求めるようになる。こうなれば、常にその存在は他者に取って代わられる脅威にさらされ、自信もなにもなくなる。個々人の代替可能化、これが人間の退化の最たるものと言える。

誤解しないでほしいのは、ITを使ったコミュニケーションは「無色透明」だからダメだと言いたいわけではない。それがふさわしい場面とそうでない場面があり、その使い分けが必須なのだ。

現代の文明生活にあって、あえて誰もいないところに行き、キャンプに興じる人が一定数いる。その時は遊びだが、これが大規模災害などライフラインが寸断されたときに役立ったりする。

最近テレビやYouTubeを賑わす社会学者の成田悠輔氏は、現実世界の人間関係は、時々帰ればかったるいけど懐かしい気持ちがする実家のような位置付けになっていくだろう、と近未来を予言した。この流れに抗うことは無理かもしれないが、現代のアウトドアのようにしてでも選択肢を確保しておくことは重要だ。なにせ、デジタルは必ず電気を必要とする。

コミュニケーション以外ではどうか。たとえば物事を調べるとき。ふと疑問を感じたら、いきなりネットで調べるのではなく、まず自分の頭の中で仮説を組んでみたり、直感を認識、整理する。そうすることでその後検索して調べた結果とのギャップがはっきりし、自分の考え方の傾向が見える。これを繰り返すと、割と正確に察しがつけられるようになってくる。その情報をリツイートするだけの装置になるのは堕落だ。自分のアップデートのために情報を使うのだ。また、Wikipediaやブログの写真、テレビのニュースを見て、得心したつもりになっていないだろうか。せっかく理解するなら、周りとは一味違う深みを持ちたい。あとからで良い。興味関心があることについてはできるだけ現場に赴こう。道中に思いがけない発見があったりする。

これらから、あるひとつの原理が見えてくる。デジタルは合理的で無駄がなく、アナログには余計なことがついてくる傾向があるのだ。言い換えれば、デジタルは偶然性が小さく、アナログは大きい。心を閉ざした人とデジタルとの相性が妙に良いのは、単に自室にこもれるというだけでなく、「見たいものしか見ない」ことを容易にしてしまうからだと言えよう。

そもそも、人はアナログから逃れられない。いくらネットの中の住人になろうと、その端末は物理的存在だし、それを見ている身体ももちろん同じだ。逃れられない以上、なるべくその存在を認め、愛し、より良くしていくしかない。沸々と湧いてくる思考、理由がわからない感情こそが起点だ。それを補完するためにのみ、ITが使われればよい。そして外界に身を委ね、不本意なものも含めて結果を受け止めよう。だって今ここにいること自体が偶然なのだ。そうしながら、誰とも微妙に違う自分だけの色をまとい、たくさんの偶然を他者に提供する存在であり続けたい。ITはそんな自分を表現する拡声器、そうしてその個性を増強していくサプリメントに過ぎない。そうあるべきだと思うのだ。少なくとも非デジタルネイティブ世代の僕は、「新しい文武両道」を掲げ続けたい。

2022.10

#32

パソコンは、「閉ざされ」と「開かれ」の両方を加速させると思う

僕は大学時代にパソコンメンテナンス、Webサイト制作の事業を始めて、ほとんど最近まで誰かと共同して仕事をすることはなく、いつもひとり。その範疇を超える発注は、ことごとく断ってきた。

「どこかに勤めれば、思ったことをそのまま口にしてしまい、きっとトラブルメーカーになるだろう」という自分不信から、徹底して就職から逃げていた。個人事業の中で人とやってこなかった理由も、そこにある。

その点で、インターネット、とりわけGoogle検索の普及進化は、救いの手となった。わからないことをほかの人に相談せざるを得ない機会を革命的に減らした。人間より有能なロボットに聞く方がよいに決まっている、という考えにもなっていた。一人でやるからと言って、孤独なわけでは全然なかった。相手のお客さんがいるからだ。Googleを内蔵した僕という拡張人間ひとりで、お客さんと向かい合っていた。

ところが、35歳を過ぎ、体力気力の限界を痛感し始める。さらに、ほどなくして子どもを授かり、稼働時間が大幅に制限された。そしてとどめは、コロナ禍だ。頼みの保育園が休園になり、子を持つ前の1割以下の時間を工面して日々のタスクをこなしていかざるを得ない日も出てきた。

いろんなことを手広くやりたい派の人間なのだが、さすがに選択と集中が必要だと悟った。つまり、苦手なことをスキルアップさせるべく続けるより、得意なことをたくさんやって収益性を上げるべきという判断に傾いた。かねてよりWebサイト制作では、コーディングは得意だが、営業とデザインはいつも手に余る感覚の連続で、億劫になっていた。

また、以前書いたように、大学では、パソコンの操作そのものより、わからない時にどう調べるか、どう聞くかのスキルを重視して指導している。それを自分自身が実践できていないのではないか。実践すれば、これまでとは違った世界が見えてくるのではないか、という考えも芽生え始めた。

そんなタイミングで、個人でWebの営業をしている旧知の人から、コーダーとして手伝ってくれないか、という話をもらった。メンバーとうまくやれるか不安はあったが、前述の背景もあり、受けることにした。

日々のメンバー間のやり取りは、もっぱらLINE WORKSだ。文字情報だから、全部履歴に残る。データもやり取りできる。Webサイト制作には極めて適していた。また、コミュニケーションに不安を持つ人間にとって、文字のみのやり取りは精神的に荷を軽くしてくれた。この文章を書いているように、上手下手はともかくとして、書くのが嫌いではないのだ。

そうしてコラボ作業の世界に入ってみると、まさに新しいことの連続だった。サブコーダーさんがやりやすいように、独りよがりでなく誰にでも理解しやすいルール作りを求められた。僕を誘ってくれた人はチームのリーダーとして動いてくれているのだが、仕事外の話も含めて、本当に盛り上がるのが大好きで、理屈より感情でつながろうとする義理人情型の人間だ。時々リアルで集まったりして親睦を深めるのも、回を重ねるごとに、緊張する行事から楽しみへと変わった。仕事のやり取りを円滑にするためにも、プライベートな話も含め、みんなが仲良くなっていることがとても重要だと気付いた。

かと言って、円滑な人間関係だけを重んじすぎると、言いたいことを言えなくなり、仕事の品質が悪化する。普段からの信頼醸成の貯金を使って、リーダーは、問題が生じたときははっきりと言い切り、絶対にあやふやにしない。こういう時は文字よりも、電話だ。そうして、お互いの納得を踏まえて事を進めていく。一人でやっていた時には想像もできないコストが、ここには確かにある。だがやはり、それぞれが得意なことに専念注力することによって、より知見を深化させていけるし、苦手な部分を一切考えなくて済む。これは大きかった。これまではできなかった規模のサイト制作に携われるようになった。また完成した時、みんなで分かち合う喜びは、格別だ。

「いやいや、こんなことは当たり前、とっくにみんな知ってるよ」とお勤めの皆さんに言われそうだ。そのとおりである。僕はこれをアラフォーになって初めて知ったのだ。しかし当初の不安を基本に考えた場合、ある程度スキルを付けて自信がある中で参画する他に、道はなかったのだと今でも思う。

このように見ると、僕の一匹狼路線、コラボ化のいずれも、最も大きな力を発揮したツールは疑いなくパソコンだ。他者を受け入れない「閉ざされ」にも、関わっていく「開かれ」にも、パソコンは有用なツールになる。社会学者の宮台真司氏の言葉に、「開かれに閉ざされるな、閉ざされに開かれろ」というものがある。何でも受け入れて芯のない自分になるな、自分なりの確固たる価値観を備えるためにこそ、他者との関わりを恐れるなという意だと解釈できよう。「閉ざされに閉ざされ」ていた自分は、いま(さら)新しい一歩を踏み出したばかりだ。

2023.02

#33

ChatGPTは、良くも悪しくも「適当なやつ」だと思う

昨年11月に人工知能チャットボット「ChatGPT」が公開されて以来、Webサービス史上最速の勢いでユーザーを増やしている。問いかけに対し、人間が書くような自然な文体で答えを返してくれる。話し相手、先生、アシスタント、作家まで何でもこなす、エポックメイキングなプロダクトだ。

物は試しと、「新型コロナは今後弱毒化し、一般的な風邪と同じようになるのでしょうか?」と問うてみたところ、以下のような回答を返した。


新型コロナウイルスは、この先弱毒化する可能性は低いと考えられます。 新型コロナウイルスは、感染力が高く、 広まりやすいウイルスであり、 風邪のように弱毒化する可能性は非常に低いと考えられます。 また、新型コロナウイルスは、これまでにも変異が発生しており、 変異を起こした新たなウイルスが発生する可能性もあります。 そのため、 新型コロナウイルスの弱毒化を期待することは適切ではありません。


簡潔かつはっきりとした旗色の答えに驚き、「へぇ、そうなのか」とそのときは納得した。

しかし入力を重ねるうち、違う側面も見えてきた。明らかに答えがわかっている、論理問題や、固有のお店、個人に関する問いをしたとき、「適当な」回答を延々と横してくる。間違いを指摘しても、詫びつつまた同じ答えを示してきたりもする。これはフラストレーションの連続だった。

そういえば、GPTは「文章生成AI」とも呼ばれている。そのことと、問答のちぐはぐさとがその時つながった。そう、人間が行うような自然な文章を「生成」するのがこのAIの売りであり、「正確な答えを出す」ことは主ではないのだ。小説を創作したり、一定の情報を与えてスピーチの原稿を書かせたら上手いといった前評判にも、これなら得心が行く。

そうするうちに、上記の最初の回答に対する認識も変わった。これはあくまで、ネットに溢れる情報を継ぎ接ぎして、「それらしい」ことを言っているだけなのではないか。その継ぎ接ぎのチョイスの精度によって、専門的な人間が考えるより正確、論理的で纏まったものになる場合も、もちろんあるにせよだ。

このように見てみると、使うに適した場面、気をつけなければならない点が、見えてくる。

と、ここまでの文章をそのままGPTに入力し、続きを書かせてみたのが以下である。


例えば、ChatGPTは、一般的な質問に対して簡単な答えを提供することができるが、専門的な知識や詳細な情報を求める場合には、信頼できる専門家に相談することが必要である。また、人間の言語を理解する能力にも限界があり、複雑な表現や文脈によっては誤った回答を返す可能性があるため、注意が必要である。 

さらに、ChatGPTが生成する文章は、その情報源や文脈によっては、偏見や誤った情報を含んでいる場合がある。そのため、情報の正確性を確認することが重要である。 

しかし、ChatGPTは、自然な言語でのコミュニケーションを可能にする点で、多くの場面で役立つことができる。例えば、英語を勉強する際には、自然な英語での会話を練習することが重要であるが、ネイティブスピーカーと会話することができない場合には、ChatGPTを活用することで、自然な英語表現の練習が可能となる。 

また、ChatGPTは、文章の自動生成にも活用できる。例えば、小説や記事、ブログなどの文章を作成する際に、アイデアを提供することができる。また、翻訳や要約などの自動化にも活用されており、今後ますます多くの分野で利用されることが期待される。 

総じて、ChatGPTは、自然な言語でのコミュニケーションや文章の自動生成において、その高い性能が期待されるが、正確性には限界があることを理解し、適切に活用することが重要である。


いかがだろうか。主語を律儀に置くところが英語っぽく、少々単調な文体だが、自然に書けていると言えるだろう。もっとも元の文章が単調だから、それを引き継いだに過ぎない可能性もある。ましてや、出力されたものをそのまま使う必要もない。出てきたものを基本にしながら、人間が適宜味付けすればよいだけだ。

前述の「適当さ」は、良くも悪しくも、これまでのAIには殆どない要素だったが、これを批判するのも、天に唾しているとわかる。なぜなら、この適当さも、ネットに存在する、または任意に学習させた、様々な人間の膨大な言葉、会話を元にしているからだ。つまり、人間自体がそれなりに「適当な」のである。うちの5歳の子供に知らないことを聞いても、適当に聞きかじった言葉をつなぎ合わせ本人なりに答えらしいことを返してくる。GPTは、その類の演算において、5歳を優に超えた能力を持ち合わせている。正確性の意味でも、それらしくごまかす意味でもだ。

非常に有用である反面、文章の雰囲気にのまれて裏取りをせずに信じ込んでしまうところに、宗教者と同じ危うさを感じざるを得ない。イーロン・マスク氏をはじめとするITの有力者が、開発競争の加熱を懸念しているが、その理由がここにあることは間違いなかろう。

2023.04

#34

Windowsは、生成AIを持て囃し過ぎていると思う

先ごろMicrosoft(MS)が発表したWindows 11の新UI。Windows Co-Pilotコーパイロット(副操縦士)と銘打ち、文章作成はもちろん、設定へのアクセスなどにおいていつでもAIに質問できるサイドバーを画面右端に表示できる機能を発表した。今後のリリースで搭載されていくと思われる。

MSはすでにWordなどのOffice製品、ブラウザのEdgeにも、同様のサイドバー機能を搭載している。わかりやすい機能増強に、アーリーアダプター層もIT界隈も前向きな評価をしているが、僕は、OSというひとつ上層に搭載されるバーと各アプリにでてくるバーの併存により混乱を来さないか、という心配が先立つ。なにせ、ふだんお世話している高齢者のPCユーザーだと、いまどのウィンドウがアクティブなのかすら正確に把握できない人が多いのだ。

これに対して、Appleは不気味なほどだんまりを決めている。もっぱら発表している新分野はARだ。ChatGPTについても、AppStoreアップストアでのサードパーティーアプリの提供にとどまっている。MSはOpenAI社と提携している、Appleにとってはさほど生成AIへの乗り遅れが死活問題にならない、といった理由に加え、まだ生成AIを人間が操作するに最適なUIの形が定まってなさすぎるというのがありそうだ。Appleは欠点を多く抱えていたり、あとから大幅な変更を余儀なくされるような製品の投入を嫌う。ユーザーに文句を言わせて揉んでいこうとするMSは対極的だ。

MSの猪突猛進型の製品開発は、一概に否定されるべきではないと思う。しかし、こと生成AIについては、前回言及したように、ITの有力者、学者らからも開発の加熱を危ぶむ意見が続出している。それを踏まえれば、とりわけ慎重であってもよいのではないかと苦言を呈したい。ともすれば人間を生成AI漬けにして、自分で考えるべき機会まで奪う結果にならないだろうか。

そもそも人が自分の頭で考えようとする条件は何だろうか。目の前に危機が迫っていれば、脳はフル回転し、その回避に努めるだろう。危機がない場合でも、当座の目的や、こうあればよいのにという理想があれば、そのために順序立てて考える。ただしそれには、自分に思考力があるというある程度の自信が必要だ。

つまりその逆は、思考の外注または停止の状態だ。差し迫る危険がない、目的も理想もない、そして考える自信もない。こうなれば、自分で思考するコスパは悪く、享楽に身を委ね、疲れたら寝ている方がマシとなろう。

AI研究者で、かつてGoogle研究部門の責任者を務めたメレディス・ウィテカー氏は、ChatGPTを始めとした生成AIを「もっともらしいことを言う親戚のおじさん」に喩え、特に学問に使う危うさを指摘した。この形容は、僕が使ってみた感覚からも強く同意できる。ただ、人間は万能でないので、もっともらしい言葉すら繰り出せない分野、場面もある。そのようなときに利用することで、生活の中で「赤点」を取る場面がほとんどなくなる可能性はあるだろう。しかし、AIに依存する比率が高まれば高まるほど、すなわちずっと思考の外注や停止が続くわけだから、AIが出す答えに逆に操作されてしまう恐れが増す。

そうすると、「赤点」を取ってしまうような弱いところに生成AIでテコ入れをし、なんとか及第点獲得に持ち込む。元々それ以上の評価を得られるところは自分の力でなんとかする。このような塩梅が良いと言える。ところが、ここには一つ大きな落とし穴がないかと感じ始めた。たとえば僕の場合、契約書を作るための知識が不足しているので、AIにその作成を依頼する意義はあるだろう。しかし、出てきたものを見て、それが真っ当なものかを判断することができるだろうか。文章の体裁が一見して整っていれば、大きな問題があっても、その分野に疎い人間が発見するのは限りなく難しいのではないか。

かくして、生産性向上のために生成AIを安易に使うのは結局危険だという結論に至る。だんだん怖くなってきた。多くの専門家が警鐘を鳴らす意味も改めて理解できる。となると、たとえば「この骨子で小説を書いて」など、まさに名前の通り「生成」の部分に使うおもちゃにする、というくらいが案外妥当なのかもしれない。少なくとも、AIを取り巻く法整備も人権意識も確立されていない今は。

視点を変えれば、適材適所の利用ができる人と、大部分をAIの判断に依存する人に選別されてしまう、過酷な時代が来るかもしれない。まさに「親戚のおじさん」との付き合い方を間違わないよう、個人それぞれの意識付けが重要だ。以前「人間の能力は道具と不可分だ」と書いたが、道具が悪ければ負の値を掛けることになる。そして生成AIが、よく使えばプラスだが間違えば大きなマイナスをもたらす鋭利さを持ち合わせていることは、昨今のブームを見ても明らかだ。その点、矢継ぎ早にAIの利用を推してくるWindowsの動きを、ここしばらくは注視していかざるを得ない。持ち上げ過ぎには、ユーザー自身が適切に批判を加える必要がある。AIにAIの監視を外注してはならないのだ。

2023.06

#35

ここ最近のSNS変革は、カオスで利用者不在だと思う

フェイスブック社が発表した新SNS「スレッズ」は、ツイッターの代替になるかと一時湧いたものの、あっという間に失速してきている。利用するにはなぜか同社の別サービスであるインスタグラムのアカウントが必要で、完全に連動している。しかも、ツイッターに優りそうな機能も現時点では特段ない。フェイスブックやインスタグラムの投稿を転送するといった機能もないか貧弱である。

そもそも他社の代替になろうと思えば、その問題点が何なのかを的確に捉えなければならない。昨今の著名人の自殺や被害報告、訴訟騒ぎにみられるように、罵詈雑言のたぐいが跋扈し、ネットリンチが横行する殺伐とした空間になりやすいことが、世間では問題にされている。過激なワードのツイートがあればアカウントの凍結などの措置が取られるという建前だが、そこが有効に作用していないように見られる。このあたりへの処方箋が明確に示されなければ、新しいサービスに乗り換える機運は大きくは生まれないだろう。

また、そのツイッターも、買収したイーロン・マスク氏の方針により、突如「X」へのブランド変更が発表され、多くの人は青い鳥を名残惜しんでいるようだ。なにせこの命名が悪手だ。いちばんは検索性の悪さである。今までであれば「広末涼子 ツイッター」などと検索して、ある人がツイッターをやっているかを調べ、プロフィールページに手早くアクセスできたものが、「X」だと言葉が短く汎用的すぎて、必ずしもこのサービスだけを指すものではなくなってしまうため、関係のない様々な結果がリストアップされる可能性を高めてしまっている。僕が日々愛用している自動化サービスの名前も、かつては「インテグロマット」だったのを「メーク」としてしまい、いまでは関数を解説するページにたどり着けなくて困っている。こんな基本を踏まえていないブランディングが、ここまで大手のサービスで行われてしまうことに、驚きを禁じえない。

その「X」は、その何者か分からない名が表すように、決済機能なども搭載した総合型のアプリへの変貌を見据えているという。だがそうなると、アプリに入れば何でもできるが、起動するアイコンはひとつである。スマホでやりたいこと別にアイコンが並んでいる直感性に逆行するもので、これまた疑問が多い。

そうしたら今度は、ティックトックが、ツイート同様文字のみの投稿機能を搭載した。カオスであるが、短文投稿された世界中のコンテンツを争奪すべくSNS各社が大喧嘩をしていることだけはわかる。

さて、この流れを俯瞰で見ても細部で見ても、いっこうに利用者が見えてこない。これらの変革で、果たして誰がどう嬉しいのか。人々の個人情報を直接であれビッグデータとしてであれ、収集したい側の都合ばかりではないか。そのむき出しの本音から見ると、利用者同士が汚い言葉を投げ合おうが、よほどの大量離反に繋がなければどうでもいいのだろう。

やはりわれわれ利用者の視点から見ると、世の中の最新のトレンドが分かる、著名人の生の言葉にふれることができるといったメリットを保ちつつ、人を不当に傷つける言葉の暴力が減るようにしていってもらわなければ困る。そこでひとつ突っ込みたい。「ここで生成AIを使わないでどこに使うの」と。

生成AIは、言葉を生成するために当然に、入力された文字列の文章構造を解析する。この解析の部分を、すべてのツイートに適用し、誰かを傷つけていたり、デマで騙したりしているか、フィルタリングできないはずがないのだ。といっても、これまでに書いてきたように、生成AIに全て身を委ねるのは危険だ。これは悪質ではないかというフラグが立つ程度でよく、リストアップされたものを迅速に人間判断していくのが望ましかろう。

ツイッターでは先ごろ「コミュニティノート」なる機能が実装された。他の利用者からの申し出によって、事実誤認と疑われるツイートに対し、それを指摘する文章が通常のツイートとは違う枠で表示されるものだ。しかし、何を以て事実とするかが人間からの摘示がゆえ、その偏りが早くも指摘されている。これを自他の国家権力が利用すれば、悪質なプロパガンダとなってしまうことは、想像に難くない。

なにごとも複雑さが増し、やがて腐敗する。そして破壊と創造が起こる。SNSももちろん例外ではない。つまり、利用者が増え、争いごとかが絶えなくなる。誰かを意図的に痛めつけたり、恣意的な偽情報をばらまき、トレンドの捏造ともいうべき状況が現出することもある。マスク氏がやろうとしていることは、我々には想像できない創造なのかもしれない。しかし、間違った方向性で壊せば、それはただの破壊になってしまうし、今そうなりつつあるように感じる。つまらないけれど、地道な改善も極めて重要だ。そこにクリエイティブを使う余地はいくらでもある。ただのビッグデータ生成ツールに堕してほしくはないのである。

2023.08

#36

構造とデザインを分けて考える習慣は、万事に役立つと思う

印刷物やWebサイトなどを制作するとき、クライアント(施主)と話をして骨格が明らかになってきたら次にやるのが「情報設計」だ。全体でどんなコンテンツが必要かを洗い出したのち、各ページ(画面)に順序を決めつつ割り当てる。ここで重要なのは、色合いや書体、線の太さなど、コンテンツの装飾は一切考慮しないこと。つまり、WhyとWhatだけに集中し、Howはひとまず脇に置いておくのだ。そこが確定してはじめて、装飾つまりデザインに移る。チームだと、構造を決めるディレクターとデザイナーとでそもそも分業していることが多い。

現代のパソコンにおける作業スタイルだと、いきなりデザインに突っ込んでいったほうが直感的で時短だと一見思われる人がおられるかも知れない。しかし残念なことに、それが適用できるのは抜きん出たセンスの持ち主である場合のみだ。凡人は、デザインから入ると構造を間違う。彩りのために不要な文言を追加してしまったり、ある場所のタイトルの存在感を際立たせたいが故に大事なフレーズを省いてしまうといったうっかりミスが多発するのだ。

商業デザインである以上、施主が伝えたいことが答えとしてはっきりしている。デザインはそれを効果的に伝えるための手法にすぎない。それぞれを目的と手段に言い換えることもできよう。まず、何故に、何を言いたいか、という「構造」を、論理情報として確定し、ためらわずに金科玉条とするのである。

印刷物ではあまり明確ではないが、WebサイトではHTMLとCSS、データベースシステムではテーブルとレイアウトというように、最初から構造とデザインを切り分けて考えるしくみになっていたりもする。最初は戸惑うが、慣れてくるとこうしないとかえってしんどくなってくる。

このように分別して思考をするかしないかで、どのような違いが生じるだろうか。

クライアントとの打ち合わせの場では、何を伝えたいかを把握することに集中するから、質問やメモがシンプルになる。先方がデザインの話をしても、惑わされることはない。どのみち構造にあったデザインしか選択肢にないからだ。また、そもそも先方は素人だ。構造とデザインを分けずに考えている人がほとんどである。これはいまどちらの話なんだろうと分類しながら聞くようになる。クライアントの意見をそのまま取り入れるのではなく、この構造ならこのデザインはない、あるいは、この構造なら先方が全く考えていないこんなデザインも十分に有り得る、など、選択肢を適切に絞り込んだり広げる思考、提案ができる。あとからデザインテイストの変更希望が出た場合でも、構造がはっきりしているので、上記と同様に対応でき、無秩序な変化を防ぐことができる。

制作では、ひとまず内容の文字列や画像を「ベタ打ち」で放り込む癖がつく。あとで細かい装飾の調整のみに注力できるので、トータルで時短だ。掃除と同じだ。まずモップで少しずつ集めては掃除機がけのサイクルを繰り返すより、モップで全部集めて、掃除機でまとめて吸い取るのほうが効率的に決まっている。

完成後のマイナーチェンジなどでも、内容の追加であればデザインを触らずパターナルにやればいいし、逆にデザインを変えたいだけなら内容は論じなくていい。つまり、物事の半分について考慮する必要がなくなる分だけ、もう半分の思考が自由になるのだ。

これは実生活に当てはめられる。とりわけ夫婦やカップル間の意思疎通をはじめとした会話で考えてみるのが絶好だ。

相手がこちらに伝えたい内容や経緯が「構造」、表情や態度、言い方を「デザイン」とすることができよう。受け止める側としては、相手の言い方や態度が悪くても可能な限り目をつぶり、言いたい内容にフォーカスすることで、時間の無駄になる喧嘩を避けられる。また逆に、雰囲気や態度が抜群であるが故に、ころっと変な話に巻き込まれるといった事故も回避できるだろう。

伝える側になればどうか。きちんと論理立てて言ってるのになぜ相手が不機嫌なのだろう。そうか、態度が尖っているのか、といったように、デザインの改善によって伝わりやすさを最適化するすべを身につけることができるだろう。言い方に拘泥するあまり、言いたいことを見失う事態にもならない。

受け取るときは内容にフォーカスし、投げかけるときは言い方や態度に余念なく行き届かせる。人に優しく自分に厳しくの模範ではないか。

SNSでは、有名人の意見に対し、その内容ではなく「なんで上から目線なの」「おまいう」など、言い方やキャラクターをあげつらうコメントが散見される。これは、何を言ったか(What)より誰が言ったか(Who)を気にする対人論証に他ならない。こういった神経症的な反応から自らを遠ざける役目もある。うまく相互に作用すれば、権威への盲従、過度なルッキズム、弱い者いじめを減らす効果もあるに違いない。

凡人は優しさを売りにするしかないが、寄り集まれば世界平和も夢ではないのである。

2023.10

#37

前景より背景、点より線に気を配ると、毎日が楽しくなると思う

「引き算の美学」と聞いて、無駄なものをひたすら削ぎ落としシンプルにすることだと信じていた以前の僕は、デザインにおいてあらゆる重複を嫌い、ビビッドな色使いに過度に慎重になっていた。ところが、作ったものを見る自分の心は沸き立たないし、いただく評価もおのずから低調であった。

その考えは、そこはかとなく良いと思えるデザインに接する日々を経て、「素材の良さを引き立たせる」ことに尽きるのだと変容した。

服や名前シールなど、子どもに関係するデザインを選択する機会は定期的にやってくる。様々な色、キャラクター、柄。際限なき選択肢に、ついついそれ自体が可愛く子供らしいものにしたくなる。しかし、服は子どもが身につける。シールならたとえば水筒に貼る。これらとセットに考えねば。すると、子ども自身や水筒が「素材」となる。言うまでもなく、子どもそれ自体が可愛いし、水筒にもそれなりの子供らしさがある。子どもと服、水筒とシール、強と強でバッティングすることを避けようと、落ち着いたデザインの服やシールを選んだことには、良い「引き算」ができたとの手応えを感じた。

抽象化すれば、前景を生かす背景のチョイス。点と点を結ぶ線のデザインとも言える。


歴史の特色は、歴史が「起こったこと」の連続として書かれていることである。しかし、人間の毎日の活動の集積が歴史だとすれば、歴史の大部分は「起こったこと」の裏にある「なにも起こらなかったこと」で埋め尽くされていることに気づく。
 ──「いちばん大事なこと」(養老孟司)


先日ふと日本語検定の例題に触れる機会があり、この文章を読んだのをきっかけに、前景と背景、点と線を改めて意識したのだ。

そうして普段の生活や活動を見渡すと、実にさまざまなシーンが思い起こされた。

子どものころアナウンサーを目指していた名残で、ニュース読みや朗読の仕事を少しばかり受けている。喋り方のモデルは、NHKの糸井羊司さんだ。彼の特徴は、「強調しないところ」の音程を徹底的に下げ、聞き取りやすさを損なわぬ限界までさっと流す。ここのさじ加減では他の追随を許さないと思う。極めて均一で安定しているのだ。これにより、大事な部分をより際立たせる。そして全体としてリスナーを疲れさせないことに成功している。ただしこれを実現するには、そもそもどこが強調箇所か(またしない箇所か)を瞬時に判断する力が求められる。言葉単体のパワーだけ見ていると必ず間違う。文章やニュース全体の要約力が試される。読む方からすれば大変な労力だが、逆に言えば単に読むだけではなくさまざまな「筋肉」を使うことになり、活動を通して得られる充実感は格別なものとなる。

子育てでは、教育的な観点で、子どもに何を問いかけよう、どんな話をしよう、と思いをめぐらすのが常だが、最近はそのメインメニューに「能動的な沈黙」を入れている。もちろん僕もついつい自分のことに没頭したりして一定時間意識を向けないことは多々あるが、これと「能動的な沈黙」は全く違う。子どもや、子どもが目を向けている対象をじっくり眺める、向こうから発信があるまで待つ、頷く、表情やジェスチャーで語る、また抱きしめるなど、非言語や「無」の時間を意識的に作るのだ。人間は子どもに限らず、黙して思考や想像を膨らませている。それが外部からの音の入力によって頻繁に中断させられている。特に子どもは自分にとってそれが有用な情報かノイズかを瞬時に分別できない。「能動的な沈黙」により、ひとつの思考をキリの良いところまで完了できる。結果、ストレスは低減する。集中力も増す。確度の高い返答をしたり、落ち着いた態度を一日中維持することが増えたと感じる。子どもは、意思表示をうまくできないとキレやすくなると言われている。親を見様見真似することで、子ども自身も言語以外の様々な表現手段を獲得する。情緒の安定にもさらに寄与しているに違いない。

旅行や仕事の移動時間では、鉄道路線や地名、信号機や標識などの道路構造物に興味を持ってしまう。経営でいえば、売上や利益の金額に全く頓着せず、目の前の仕事において、面倒な作業は限界まで時短し、面白いことはじっくりやる。こうして自分の気持ちの充実、お客さんの満足度に意識を集中させる。表題にある「前景より背景、点より線」の具体例には事欠かない。これが僕なりの、自分で自分を楽しませるすべなのだろう。

少し前に友人が勧めてくれた本の帯に書かれた一文が実に鋭利であった。


効率よく生きたいなら、生まれてすぐ死ねばいい
 ──「今日、誰のために生きる?」(ひすいこたろう、SHOGEN)


結果が大事か過程が大事か、という問いを、誰しも一度は考えたことがあろう。僕は年を追うごとに、「結果を遠くに見据えながら何かをなす過程が尊い」との思いを強固にしている。並列ではなく主従関係なのだが、従なき主ほど空疎なものはないと思うのである。

2023.12

#38

キーボードの進化から、人間の嗜みの本質が見えると思う

パソコンになくてはならない古参入力装置であるキーボードは、スマホやタブレットでタッチパネル化されたことを除けば、発明以来ほとんどその構成を変えていない。アルファベットが左上からQ,W,Eと「QWERTYクワーティー配列」で居並び、その周辺を記号や修飾キーが囲む。フルキーボードだとさらにその右にテンキーが付く。そこに抜本的な変革を求める声は聞こえてこない。

ところが、 2023年はキーボード新製品の豊作年であった。これだけ定着しきっているプロダクトのどこに革新の余地があろうか。答えは、デザインと打鍵感。つまり、見て楽しく打って楽しいキーボードの追求がちょっとしたブームになっているのだ。タッチパネルキーボードとは真逆の方向性であることは興味深い。探求の旅にどっぷり浸かることを表す「キーボード沼」という言葉もあるほどだ。先月には、国内初の自作キーボード即売会が東京で催されたという。

さて、キーボードの種類は大まかに4種類ある。シリコンの膜を押して反応させるメンブレン式が最も廉価で普及しているが、薄型に適して静音なパンタグラフ式、キーごとに独立した機構を持ちくっきりとした打鍵音を発するメカニカル式、電極と接触させないことで静音かつ高耐久を実現した静電容量無接点方式とがある。あとの2つが高級キーボードで採用されている方式だ。酷使されるセブンイレブンATMのキーボードには、実は最高級の静電容量無接点方式が採用されている。

メカニカル式は、明確な打鍵音が特徴だ。これにより文字を入力していることが直感的に認識でき、ストレスや疲労感を軽減、長時間ミスの少ないタイピングが可能になる。打鍵音の発生源である、キーと基盤の接触部分すなわちキースイッチに様々なバリエーションがある。カチカチと音が際立つ「青軸」、控えめな「赤軸」、その中間の「茶軸」が代表的だ。周りに人がいる環境ではメカニカル式自体が憚られたり、やるとしても赤軸だが、ひとりの部屋で使う場合は青軸を好む人も多い。軸によって、キーの重さも微妙に異なる。静電容量無接点方式は3万円以上と超高級だが、メカニカルはもう一段下の価格帯であることも手伝い、新製品が特にたくさん出ている。

方式の他には、テンキーの有無、有線か無線か、キーキャップの表記がWindows向けかMac向けか、かな入力や日本語入力切替のための日本語配列か英語オンリー向けの配列か、といったところが選択の要点だ。テンキーが左側についていたり、キーボードが中央でぱっくり割れ両手のポジションを詰めずに入力できたりする、色物のキーボードもあったりして、楽しい。

思えば、パソコン本体の進化も、基本的な性能、速度への挑戦から、いまはユーザー体験の洗練度へと、探求の方向性が変わってきた歴史を持つ。僕が小学生の頃は、パソコンと言えば真四角で、少し黄色がかったクリームホワイトとでも言うべきカラーリング一択であった。中二の頃、IBMからオールブラックのデスクトップPCが出て、胸を躍らせた。高校時代にカラフルな卵型の初代iMacを目にしたときは、パソコンもついにここまで来たかとの感慨をもったものだ。そこから、メタリックでミニマルなデザインへとトレンドが移り、違和感よりも、生活空間に溶け込むものへと変貌をとげた。最近では、少しレトロに回帰する傾向も見られる。これは、もともと軍事、学術用途だったパソコンが、オタク、ビジネスパーソン、クリエイター、ゲーマー、主婦、そして子供へと、ユーザーの裾野を広げてきたことと無縁ではあるまい。

全く同じ背景が、キーボードにもあると言えよう。無骨で均一な時代から、ユーザー体験のクオリティを追求するようになり、プロダクトが多様化した。とりわけ、中国発のインディーズメーカー製キーボードが個性的で目を引く。中国人の生活レベルが向上し、繊細なユーザー体験までもが問われる時代になったことを如実に物語る現象だ。

「不適切にもほどがある」というドラマが放送されているが、安全安心への配慮を優先しつまらなくなった現代を面白く鋭利に描き出していると話題になっている。これも、とにかく豊かになるために戦後なりふり構わず成長した時代から、充足の先にある心の機微といったものへと次第に焦点が移動した結果ではある。無数の「ハラスメント」が定義され、ぼんやりとした「プライバシー」の保護を理由に身動きを取れなくさせられる今の社会は、まだまだ進化の過渡期なのだろうとしか言いようがないのだが、如何にして社会に折り合いをつけながら個々人がのびのびとありのままに過ごせばよいのだろうか。色とりどり、多種多様なキーボードが、「嗜みとはこうでなくちゃ」とその難題にヒントをくれている気がするのだ。

ところでここ最近僕は気がつけば打鍵音の動画ばかり漁っている。そのような壮大な意味付けをしているが、単に沼に足を取られているだけの可能性も捨てきれないので注意されたい。

2024.04

#39

パソコンの不具合は、権力の行く末を物語っていると思う

わが国の国政は、いま政治資金を巡る大スキャンダルに揺れている。次の選挙の投票先を問う世論調査では、野党第一党の立憲民主党が、衆院の議席数で2倍以上の差をつけられている自民党を上回る結果を残し始め、政権交代前夜の様相を呈している。

各党が政治資金規正法の改正案を提出しているが、自民党案はパーティー券の領収書不要要件を残すことに固執するなど、意図的に抜け穴を温存させているとしか思えない主張を隠そうとしない。挙句の果てには、党首のマネーロンダリングが疑われる日本維新の会と、領収書の公開を10年後に行うとする案に合意し、悪事の隠蔽にタッグを組んでしまう始末だ。もっともこれは分が悪すぎたのか、野党議員から質問通告を見るや、前代未聞の翌日撤回ということになり、酷さを露呈した。

圧倒的強者がその権力を長らくほしいままにしてきた結果、腐敗し、またそれを自浄することが困難になる流れは、あらゆる歴史書の語るところである。しかし、幸いにして現在ここは民主主義国家だ。有権者が頑張って、世論調査が実際の投票行動に反映され、権力者には一度に下ってもらうとしよう。

さて、政治の話で始まったが、このコーナーはパソコンから見て取れる哲学を論じる場である。つまり、パソコン業界にも往々にして政治と似たような権力と腐敗の構造が存在しているのだ。まあ、人間の営為の全てに言えるのだから、当たり前ではある。

たとえば、Windowsでは、ここ1年ほど、「バックアップをとりましょう」と促す通知が出てくるようになった。ユーザーの方はみな心当たりがあるだろう。バックアップの言葉だけ見ると、それは必要で、良いことで、今すぐ実行すべきとなる。しかし、この通知の内実は、デスクトップなど主だったフォルダ内のデータを、Microsoft(以下「MS」)が運営するクラウドストレージ「OneDriveワンドライブ」と同期させようとするものだ。それ自体悪いことではないが、有料契約をしていない場合、OneDriveの総容量はたったの5GBで、同期対象のファイルが全然入り切らないことがほとんどだ。つまり、同期して、容量が足りなくなり、これを解決する方法として有料プランへの契約を迫ってくる流れになっている。

情報弱者相手に、それらしい言葉で誘い出し、引き返せなくして、タカリをしているようなものじゃないか、というそしりを免れないだろう。ところが、この仕組みは、思わぬところに最大の問題点がある。

なんと、契約の有無にかかわらず、この同期機能を有効にすると、MS製のメールアプリ「Outlookアウトルック」のデータが消失するという重大な不具合が、一定確率で発生するのだ。この問い合わせは、僕のところに数ヶ月に一度寄せられている。

このような機能間のかみ合わせの悪さは、MSが巨大企業で、組織内の部署意識が過剰に働いていることによるものだろう。たとえば、ChatGPTなど今を時めく新進企業はどこも少数精鋭で開発を行っているため、統一感を持って迅速に機能追加や不具合修正が行える。また、ITの分野は、トップシェアを握ると互換性を保持するためにユーザーがそこに押し寄せるため、それをなかなか他社がひっくり返せない。利権に群がる人を囲い込んでしまう、日本政治における自民党とそっくりである。MSがあまりに多くの力を獲得した結果、少々のクレームでは痛くも痒くもない状態を作り出してしまい、対応が後手後手かつ不十分。より騒ぎが小さければ、不具合を不具合として発表せず握りつぶすに等しいことをやれてしまうのである。実際、OneDriveとOutlookの問題は、明らかに存在しているにも関わらず、MSは現在に至ってこれを不具合としてアナウンスしていないし、修正プログラムなども当然にリリースしていないのだ。

権力は腐敗する。パソコンの不具合からそのような人間の摂理が垣間見えるのは、誠に興味深い。そもそもITも人間が作っているのであり、大変に人間臭い界隈なのである。さりとて、ITの現場から人間を取り除いてクリーンにせよと言いたいわけではない。AIがソフトウェアを開発改良していく日も近いだろうが、そうなっても、人間によるチューニングは欠かせない。ここからは逃れられないし、なればこそ人間が尊厳を失わずにいられるのだ。

政治は碌でもない代物だが、なんぴとも政治から逃れることはできないし、逃れれば社会が壊れる、というのにこれまた似ている。

パソコンのプロダクト選びにおいても、不具合や過剰なコマーシャリズムなど、われわれユーザーの不利益になることにはうるさく声を上げねばならない。また、その解決が叶わぬと見れば、政権交代よろしく別の製品に乗り換えることが肝要である。みんなが使っているから、なんとなく使ってる。不具合時、問い合わせ先がわからず、よくわからないからパソコンごと買い替え。というのでは、ユーザーも開発者も健全ではない。権力をコントロールするための主権者意識。せめて中級者以上を自認する人はこの感覚を持ちたい。

2024.06

#40

AIのプロンプトは、日本社会の閉塞感を逆説的に炙り出していると思う

ChatGPTが世に出たのは一昨年の秋。自然言語で問うたら自然言語で返してくる、つまりパソコンやスマホと普通に会話できる。その新しさには夢中になったが、正確性が不十分だったり、きわどい問題に言葉を濁したりする。「もっともらしいことを言う親戚のおじさん」との学者の評価を#34に取り上げたが、言い得て妙だと思ったものだ。

だが、その熱狂はユーザーがユーザーを呼び、急速な知見の蓄積をもたらす。そうして、前述のような物足りなさを感じる原因がほとんど人間側にあるということがすぐに導き出された。

たとえば質問をするとき、「何回かに分けて書くから、答えてと言うまで聞いてて」と入力(「プロンプト」)するだけで、GPTは答えを控え、相槌を打ってくれる。こちらも一息で質問しきる必要がなくなり、おのずとより詳細に問うから、回答の解像度も確実に上がる。また「アイデアは五つほど、それぞれ二百字程度の解説をつけて」などと形式をしっかり定義することも有効だ。

残念な答えが返ってきても、「当り障りなくてつまらんな」と返すと、「ご期待に沿えずすみません」とか言いながら、真面目に少しぶっ飛んだ答えを返してくる。どこまで行っても、入力に見合う出力を打ち返してくるのがコンピューターでありAI。いい球を投げなければただ歩かせて終わりなのである。

今では、そのプロンプトの完成度を究める「プロンプトエンジニア」なる職業名も盛んに聞かれるようになった。毎日、AIの生産性を爆発的に上げるプロンプトが多数発明され、YouTube動画で発表されているのだ。

このように、AIに良い仕事をしてもらうために必要なのは、詳細な説明と、粘り強い対話。さしずめ「バカとAIは使いよう」といったところだ。これは、子供、あるいは文化や言語が異なる人に質問したり説得したりするときと似ている。

かたや、日本社会でなされている人間同士のコミュニケーションはどうか。

「空気を読め」の言葉に象徴される、そんたく文化が蔓延している。AI用語に置き換えれば、プロンプトの省エネと言える。言語的文化的な共通理解が相当程度進んでいないと成立しない。そういった物を背景に、僕がやっている短歌を始め様々な文芸が生まれ、文化の国として花開いていることも確かだ。しかし、共通理解がどの程度その時その場であるかは、だれも保証していないから、人間関係が希薄な時代にあっては、かなり危うい綱渡りであることも認識せねばならない。

また、そのような意思疎通の手法により、いったん暗黙の周波数の信号をキャッチできなくなると、そのコミュニティから仲間外れにされたり、いじめの対象になったりしやすい。しかもそこに、十分な説明もない。そんな目に遭う理由もだいたい雰囲気で分かれよという具合である。排斥する側は、なんら言葉として発しているわけでもなかったりするから、客観的、法的なジャッジの場においても、責任が曖昧になって認められにくい。その究極が、先の大戦ではなかったか。そう考えると、根深さと無益さにゾッとする。

輪からいちど外れるとなかなか戻れない、外れたままで社会生活を営むことが困難というマインドを持たせてしまうことが、メンタルの異常や極端な行動を誘発する。多くを想像して先回りする繊細さを「おもてなしの文化」と言って海外からの観光客は絶賛するが、実際に住んでみるとその息苦しさに辟易する話もまた聞く。これから移民が増えて多文化社会の世が来るかもしれないことを考えても、一定程度グローバルな方向に舵を切る必要がなかろうか。

その時、対称的なGPTプロンプトの手法が一定程度役に立つのではないかと僕は考える。自分ひとりからできることはたくさんある。

「テレパシー」といったものを有難がらず、いちいち説明することを当然の努めとしよう。相手がここまではわかっているはずだという認識をするにおいて、思い込みが仇になることは多々ある。前提を丁寧に説明する段取りを踏みたい。とはいえ「これはひらがなと言ってね」から説明する必要性が流石にないように、AIの存在によってどこまでが最低限の共通了解かが可視化された面が大いにある。

「ここまで大丈夫?」と段階的に理解や納得を確認しよう。これが文化の差だけでなく、年の差や性差、境遇の差など、あらゆるギャップを少しであってもなだらかにしていくことに違いない。また「ここがどうしても分かり合えない」という、不具合の原因の切り分けが明確に行える点で、優れた手法だ。

「暗黙の〇〇」を生まないようにしよう。「ここ笑うとこ」と言われてたじろぐ「内輪ノリ」はもうたくさんだ。また、いきなりタブーに触れたなどと糾弾されても、どこがタブーだったか教えてもらえず、といったケースもままある。多文化共生を考えると、極力除去しておかなければ、社会の分断すら招きかねない。

AIから人間への逆輸入。人間性を取り戻すためにAIを使うのも一興である。

2024.08

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「パソコンオタクのなんちゃって哲学」は、とみっぺが2018年より、Webマガジン「月刊CAMNET電子版」に連載している記事です。

  • 執筆当時の時代状況と現在のそれが合致しないことがあります。ご了承ください。
  • 明らかな誤字などは、執筆時のものを修正しています。