Webマガジン「月刊CAMNET電子版」
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#45

過酷な鉄道運用からプログラミングの要点が見えると思う

先日、奇跡的に大相撲のチケットを入手でき、名古屋まで観戦に出かけた。2日目は犬山に立ち寄ることに決め、往復とも名古屋鉄道の電車を利用した。

「名古屋鉄道の名古屋駅」と聞けば、多数の線路を備えた大規模ターミナルを想像するだろう。しかし実際は大きく異なる。上下1線ずつしかなく、当駅止まりの電車を留置する待避線もない。地下にあるため、見た目は地下鉄の中間駅のようである。ところが、ここに乗り入れる路線は6路線に及び、それぞれに普通、準急、急行、快速急行、特急、快速特急とJR以上に多彩な種別が設定され、行き先も多岐にわたる。こうした列車が、細い“名古屋駅”という管に絶え間なく押し寄せるのだ。

このカオスな運用は鉄道ファンの間では有名で、ぼくもYouTube動画などで見て知ってはいた。今回が4度目の名古屋訪問だが、実際に自分の目で確認できるのは初めてであり、とくに犬山から戻る際には写真を数多く収めた。

列車は上下線とも到着後わずか40秒ほどで乗降を終え、瞬く間に発車していく。するとすぐに案内放送が流れ、その説明が終わらぬうちに次の電車が入ってくる。平均して約2分間隔で入線と発車が繰り返され、これが一日中続く。通常の運用であれば乗客は溢れ、乗り間違いも頻発し、苦情が殺到するだろう。名鉄はそれに対して世界でも類を見ない独自の工夫を凝らし、混乱を防いでいる。ここに名古屋駅の面白さがある。

ホームは上下線の外側に加えて内側に島式が設けられている。列車が到着するとまず島式側のドアを開け降車のみを行い、数秒後に外側のドアを開けて乗車させる方式を採用している。これにより乗降客が同じホーム上で“こんにちは”をすることがなく、流れが一方向になる。結果として膨大な乗客を1分以内で処理できるのだ。ホーム上には複数の係員が配置され、赤旗で合図を送り合い、乗降完了を車掌に伝える。車掌はベルが鳴り終わるのを待たずに素早くドアを閉め、発車する。

名鉄は愛知県内を中心に縦横無尽に路線網を展開し、その多くが名古屋駅を経由する。すべてが構内の2線に集中するため、慣れない乗客には次の電車が目的地に向かうのか、あるいは停車するのか即座に判断しづらい。そこで路線ごとに色を割り当て、乗降位置を少しずつずらし、次発・次々発・さらにその次と別々かつ同時に整列できるよう工夫されている。足元の表示に加え、線路反対側の天井下には行灯型の案内標識が並び、次に到着する列車に対応するものだけ点灯する。制約の中でできる工夫は全てやり尽くしている感がある。

さらに驚かされたのは、多くの鉄道駅で一般化している自動放送の類を一切導入していない点である。過密ダイヤゆえに遅延や行き先変更など変動要素が多く、システム化が難しいのだろう。名古屋駅では職員が立て板に水のごとく淀みなく案内を放送する。ホーム全体を広く見渡せるよう、少し高い位置に“DJブース”と呼ばれるガラス張りの放送室が設けられている。案内モニターには時刻、路線、種別、行き先が表示されるが、これも自動化されている様子はなく、DJブースで逐一パソコン操作されているようだ。

異常気象時などでダイヤが大幅に乱れるとき、JRでは元のダイヤをそのまま遅らせて動かし、深夜時間帯に以降の便を休止する方法を取る。しかし名鉄は大胆に行き先の変更や車両の増解結を行い、早期にダイヤを回復させることを優先する。そもそも天気予報を踏まえた事前運休措置などもほとんどなく、目の前の状況で行けるところまで行く、というのがポリシーのようだ。これらも人間主体だからこその運用である。

社会全体が人間の介在を減らしデジタル化による効率化を進めるなか、名古屋駅では、部分的にITを導入しつつ、肝心な部分はあえて人間が担っている。極限状況において数十年もの間この方式が維持されてきたことは、デジタルと人間の役割分担を考える上で重要な示唆を与える。同時に、複数の人間が適切に協働すればプログラムを超える成果を出せることの証左でもある。

前号に書いたように、ぼく自身プログラムを作り始めたこともあり、その強みと同時に非定型な事象への対応の難しさを痛感している。デジタルはあくまで道具であり、どこまでをプログラムに任せ、どこからを人間が担うのかが問われている。AIに意思決定を丸投げしても、より良い未来は訪れない。換言すれば、何がどの程度定型かを見極める力こそ、現代のIT人に必要とされる能力なのだろう。

そのうえで大切なのは、「人間が自ら頑張る余地を残す」ことだ。現代の閉塞感や停滞感の背景には、合理化の中で人間性が削がれ、意味づけが失われてきたことがある。名鉄名古屋駅の運用には確かに人間が存在している。最近の鉄道全般がつまらない一方であの光景を目にすると元気が湧いてくるのは、われわれの居場所を改めて認め直してくれているように感じられるからなのかもしれない。

2025.10

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「パソコンオタクのなんちゃって哲学」は、とみっぺが2018年より、Webマガジン「月刊CAMNET電子版」に連載している記事です。

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