Webマガジン「月刊CAMNET電子版」
2018年から連載している記事のアーカイブです。

#40

AIのプロンプトは、日本社会の閉塞感を逆説的に炙り出していると思う

ChatGPTが世に出たのは一昨年の秋。自然言語で問うたら自然言語で返してくる、つまりパソコンやスマホと普通に会話できる。その新しさには夢中になったが、正確性が不十分だったり、きわどい問題に言葉を濁したりする。「もっともらしいことを言う親戚のおじさん」との学者の評価を#34に取り上げたが、言い得て妙だと思ったものだ。

だが、その熱狂はユーザーがユーザーを呼び、急速な知見の蓄積をもたらす。そうして、前述のような物足りなさを感じる原因がほとんど人間側にあるということがすぐに導き出された。

たとえば質問をするとき、「何回かに分けて書くから、答えてと言うまで聞いてて」と入力(「プロンプト」)するだけで、GPTは答えを控え、相槌を打ってくれる。こちらも一息で質問しきる必要がなくなり、おのずとより詳細に問うから、回答の解像度も確実に上がる。また「アイデアは五つほど、それぞれ二百字程度の解説をつけて」などと形式をしっかり定義することも有効だ。

残念な答えが返ってきても、「当り障りなくてつまらんな」と返すと、「ご期待に沿えずすみません」とか言いながら、真面目に少しぶっ飛んだ答えを返してくる。どこまで行っても、入力に見合う出力を打ち返してくるのがコンピューターでありAI。いい球を投げなければただ歩かせて終わりなのである。

今では、そのプロンプトの完成度を究める「プロンプトエンジニア」なる職業名も盛んに聞かれるようになった。毎日、AIの生産性を爆発的に上げるプロンプトが多数発明され、YouTube動画で発表されているのだ。

このように、AIに良い仕事をしてもらうために必要なのは、詳細な説明と、粘り強い対話。さしずめ「バカとAIは使いよう」といったところだ。これは、子供、あるいは文化や言語が異なる人に質問したり説得したりするときと似ている。

かたや、日本社会でなされている人間同士のコミュニケーションはどうか。

「空気を読め」の言葉に象徴される、そんたく文化が蔓延している。AI用語に置き換えれば、プロンプトの省エネと言える。言語的文化的な共通理解が相当程度進んでいないと成立しない。そういった物を背景に、僕がやっている短歌を始め様々な文芸が生まれ、文化の国として花開いていることも確かだ。しかし、共通理解がどの程度その時その場であるかは、だれも保証していないから、人間関係が希薄な時代にあっては、かなり危うい綱渡りであることも認識せねばならない。

また、そのような意思疎通の手法により、いったん暗黙の周波数の信号をキャッチできなくなると、そのコミュニティから仲間外れにされたり、いじめの対象になったりしやすい。しかもそこに、十分な説明もない。そんな目に遭う理由もだいたい雰囲気で分かれよという具合である。排斥する側は、なんら言葉として発しているわけでもなかったりするから、客観的、法的なジャッジの場においても、責任が曖昧になって認められにくい。その究極が、先の大戦ではなかったか。そう考えると、根深さと無益さにゾッとする。

輪からいちど外れるとなかなか戻れない、外れたままで社会生活を営むことが困難というマインドを持たせてしまうことが、メンタルの異常や極端な行動を誘発する。多くを想像して先回りする繊細さを「おもてなしの文化」と言って海外からの観光客は絶賛するが、実際に住んでみるとその息苦しさに辟易する話もまた聞く。これから移民が増えて多文化社会の世が来るかもしれないことを考えても、一定程度グローバルな方向に舵を切る必要がなかろうか。

その時、対称的なGPTプロンプトの手法が一定程度役に立つのではないかと僕は考える。自分ひとりからできることはたくさんある。

「テレパシー」といったものを有難がらず、いちいち説明することを当然の努めとしよう。相手がここまではわかっているはずだという認識をするにおいて、思い込みが仇になることは多々ある。前提を丁寧に説明する段取りを踏みたい。とはいえ「これはひらがなと言ってね」から説明する必要性が流石にないように、AIの存在によってどこまでが最低限の共通了解かが可視化された面が大いにある。

「ここまで大丈夫?」と段階的に理解や納得を確認しよう。これが文化の差だけでなく、年の差や性差、境遇の差など、あらゆるギャップを少しであってもなだらかにしていくことに違いない。また「ここがどうしても分かり合えない」という、不具合の原因の切り分けが明確に行える点で、優れた手法だ。

「暗黙の〇〇」を生まないようにしよう。「ここ笑うとこ」と言われてたじろぐ「内輪ノリ」はもうたくさんだ。また、いきなりタブーに触れたなどと糾弾されても、どこがタブーだったか教えてもらえず、といったケースもままある。多文化共生を考えると、極力除去しておかなければ、社会の分断すら招きかねない。

AIから人間への逆輸入。人間性を取り戻すためにAIを使うのも一興である。

2024.08

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「パソコンオタクのなんちゃって哲学」は、とみっぺが2018年より、Webマガジン「月刊CAMNET電子版」に連載している記事です。

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