Webマガジン「月刊CAMNET電子版」
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#38

キーボードの進化から、人間の嗜みの本質が見えると思う

パソコンになくてはならない古参入力装置であるキーボードは、スマホやタブレットでタッチパネル化されたことを除けば、発明以来ほとんどその構成を変えていない。アルファベットが左上からQ,W,Eと「QWERTYクワーティー配列」で居並び、その周辺を記号や修飾キーが囲む。フルキーボードだとさらにその右にテンキーが付く。そこに抜本的な変革を求める声は聞こえてこない。

ところが、 2023年はキーボード新製品の豊作年であった。これだけ定着しきっているプロダクトのどこに革新の余地があろうか。答えは、デザインと打鍵感。つまり、見て楽しく打って楽しいキーボードの追求がちょっとしたブームになっているのだ。タッチパネルキーボードとは真逆の方向性であることは興味深い。探求の旅にどっぷり浸かることを表す「キーボード沼」という言葉もあるほどだ。先月には、国内初の自作キーボード即売会が東京で催されたという。

さて、キーボードの種類は大まかに4種類ある。シリコンの膜を押して反応させるメンブレン式が最も廉価で普及しているが、薄型に適して静音なパンタグラフ式、キーごとに独立した機構を持ちくっきりとした打鍵音を発するメカニカル式、電極と接触させないことで静音かつ高耐久を実現した静電容量無接点方式とがある。あとの2つが高級キーボードで採用されている方式だ。酷使されるセブンイレブンATMのキーボードには、実は最高級の静電容量無接点方式が採用されている。

メカニカル式は、明確な打鍵音が特徴だ。これにより文字を入力していることが直感的に認識でき、ストレスや疲労感を軽減、長時間ミスの少ないタイピングが可能になる。打鍵音の発生源である、キーと基盤の接触部分すなわちキースイッチに様々なバリエーションがある。カチカチと音が際立つ「青軸」、控えめな「赤軸」、その中間の「茶軸」が代表的だ。周りに人がいる環境ではメカニカル式自体が憚られたり、やるとしても赤軸だが、ひとりの部屋で使う場合は青軸を好む人も多い。軸によって、キーの重さも微妙に異なる。静電容量無接点方式は3万円以上と超高級だが、メカニカルはもう一段下の価格帯であることも手伝い、新製品が特にたくさん出ている。

方式の他には、テンキーの有無、有線か無線か、キーキャップの表記がWindows向けかMac向けか、かな入力や日本語入力切替のための日本語配列か英語オンリー向けの配列か、といったところが選択の要点だ。テンキーが左側についていたり、キーボードが中央でぱっくり割れ両手のポジションを詰めずに入力できたりする、色物のキーボードもあったりして、楽しい。

思えば、パソコン本体の進化も、基本的な性能、速度への挑戦から、いまはユーザー体験の洗練度へと、探求の方向性が変わってきた歴史を持つ。僕が小学生の頃は、パソコンと言えば真四角で、少し黄色がかったクリームホワイトとでも言うべきカラーリング一択であった。中二の頃、IBMからオールブラックのデスクトップPCが出て、胸を躍らせた。高校時代にカラフルな卵型の初代iMacを目にしたときは、パソコンもついにここまで来たかとの感慨をもったものだ。そこから、メタリックでミニマルなデザインへとトレンドが移り、違和感よりも、生活空間に溶け込むものへと変貌をとげた。最近では、少しレトロに回帰する傾向も見られる。これは、もともと軍事、学術用途だったパソコンが、オタク、ビジネスパーソン、クリエイター、ゲーマー、主婦、そして子供へと、ユーザーの裾野を広げてきたことと無縁ではあるまい。

全く同じ背景が、キーボードにもあると言えよう。無骨で均一な時代から、ユーザー体験のクオリティを追求するようになり、プロダクトが多様化した。とりわけ、中国発のインディーズメーカー製キーボードが個性的で目を引く。中国人の生活レベルが向上し、繊細なユーザー体験までもが問われる時代になったことを如実に物語る現象だ。

「不適切にもほどがある」というドラマが放送されているが、安全安心への配慮を優先しつまらなくなった現代を面白く鋭利に描き出していると話題になっている。これも、とにかく豊かになるために戦後なりふり構わず成長した時代から、充足の先にある心の機微といったものへと次第に焦点が移動した結果ではある。無数の「ハラスメント」が定義され、ぼんやりとした「プライバシー」の保護を理由に身動きを取れなくさせられる今の社会は、まだまだ進化の過渡期なのだろうとしか言いようがないのだが、如何にして社会に折り合いをつけながら個々人がのびのびとありのままに過ごせばよいのだろうか。色とりどり、多種多様なキーボードが、「嗜みとはこうでなくちゃ」とその難題にヒントをくれている気がするのだ。

ところでここ最近僕は気がつけば打鍵音の動画ばかり漁っている。そのような壮大な意味付けをしているが、単に沼に足を取られているだけの可能性も捨てきれないので注意されたい。

2024.04

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「パソコンオタクのなんちゃって哲学」は、とみっぺが2018年より、Webマガジン「月刊CAMNET電子版」に連載している記事です。

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