Webマガジン「月刊CAMNET電子版」
2018年から連載している記事のアーカイブです。

#27

マニュアルは、ITでも教育でも人生でも機能しなくなっていくと思う

僕の幼少期に読んでいた本といえば、電話帳、漢和辞典、そして取扱説明書だった。絵本などの物語は「読んで何になるのか」といった感情を持っていた。なぜか目先の実用性ばかりが価値だと思っていた。幼稚園で周りの子らと話が合わないだろうということは、容易に想像できよう。いまでも時刻表が好きだというのだから、大して変わっていない。

家じゅうの電気製品、調理道具から、親の自動車に至るまで、ありとあらゆる説明書を読破した。親も知らないボタンの意味、便利機能を自分が知っている、といったことにある種の快楽を覚えていたのだろう。また、部品の名前や独特な機能名、謎の長大な表など、説明書以外では全く出てこないような難解な要素が、自分を惹きつけた。

パソコンにおいても、勃興期は他の家電製品と同様、マニュアルがどっさりとついてきた。初めて購入したパソコンのアプリは「一太郎6.3」だが、その箱の厚みは20cmほど。CD-ROM以外の空間には、100ページ超のマニュアルが詰まっていたのだ。

ところが、Windows 95 が登場したころから、急速に冊子のマニュアルは減り、画面上で呼び出して参照する「ヘルプ」の形式へと変貌した。ウィンドウシステムが確立し、1画面の中でマニュアルと作業画面を並べたり、交互に切り替える環境が整ったこと、ストレージの容量に余裕が出てきたこと、コストの削減など、いろいろな要因はあるが、一番の理由は、パソコンやアプリが冊子での説明には到底収まらない巨大な「世界」ともいえるようなものになっていったことだ。

また、バージョンアップによって、操作方法などは生き物のように進化していく。これに最適化するように、インターネット回線が広く普及して以後は、ブラウザからオンラインマニュアルを見るよう誘導する製品も増えた。

この流れは、一応今に至るまで続いている。しかし、実質的にはほとんど役に立たなくなってしまった。というか、そもそも冊子のマニュアルが消え始めたころから、ずっと役に立っていないかもしれない。

装置を作った人が当然マニュアルも作る性質上、彼らの想定の外にあることは書けない。だが、どんどん増加していくユーザーは多種多様になり、メーカーの予想だにしないものをそのアプリで作成したり、奇想天外な使い方をするようになった。エラーメッセージだって、各ユーザーのパソコン環境によって出てくるものもタイミングも異なる。つまり、作ったものを遂に説明できなくなってしまったのだ。

今ユーザーは、まずパソコンに直感で向き合う。これだけで目的が達成できたら、それは優れた製品だと言えよう。困ったときは、達者な人に聞くか、ネットで調べる。ネットといっても、メーカーが書いた情報ではない。ほかのユーザーが書き残した、「こんなとき、こうやったら、こうなった」という「ナレッジ」だ。前述の達者な人も、結局ネットで調べたものを根拠にしていることがほとんどである。マニュアルのWikipedia化と言っていいだろう。

根気と暗記力は役に立たなくなり、なんら手がかりのない砂漠のような場所で、自分の目的に応じて必要な情報に素早くたどり着く「検索力」か、もしくはとことん友人に助けてもらう「人たらし力」が、ITスキルを身に着けるための重要な力として取って代わった。

そろそろお気づきの方もいるだろうが、ITがそうであるということは、人間社会も少なからずそのように変化していることを意味する。多くの人が生存の危機に日々怯えることがなくなり、街にはさまざまなサービスやインフラが溢れている。情報も流れ放題だ。自分がそのどれを選択し、どのように利用すべきか。災害時の対応など目的のはっきりしたものに対するマニュアルはあるが、日常生活におけるそんなものかあるはずもない。

インターネットによって、「知」はそれぞれの人間が独立して保持するのではなく、より多くを広く共有するものになった。独力でテスト問題を解かせて点数を見ても、あまりその後の人生を切り開く力としての意味はないのだ。教科書をなぞりながら板書をさせ、順番に覚えさせていく一辺倒の学校教育。これが本気で変わっていかなければ、この国は没落から免れない。

働く現場では「マニュアル対応」という言葉がしばしば使われる。しかしそのような仕事の多くは、ロボットの台頭とともに人間のやることではなくなっていく。オリジナリティを持って創造したり問題解決をするところに、人間の活路は集約されるだろう。

さらに、仕事がないことが危険でも悪でもない時代になったとき、一体全体日々の生活の目的をどこに定めればいいのか、という問いに答えを出していかなくてはならない。教科書、マニュアル、ハウツー本、バイブルといったもので楽をすることはできないのだ。

サボらずたくさん考え、自分だけの楽しさ、幸せを探し、たどり着こう。でなければ、「考える葦」として人間に生まれてきた甲斐がないではないか。

2021.12

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「パソコンオタクのなんちゃって哲学」は、とみっぺが2018年より、Webマガジン「月刊CAMNET電子版」に連載している記事です。

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